高祖保と高村光太郎


高祖保が編纂から装幀までを手がけている。

序文の最後に、

この詩集の出版にあたつては一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。

との謝辞がある。

彼が同書に関わった経緯や編纂中の様子は、高村の「高祖保さんをしのぶ」という小文から窺い知ることが出来る。
この追悼文は1946年5月8日に書かれ、『近代詩苑』(発行人岩佐東一郎・編集人北園克衛)に送られたが、同誌が廃刊になったため発表されなかった。現在全集で読むことができる。

 高祖保さんをしのぶ


召集せられて出てゆかれたときいた時、ちよつと不安を感じた。あのデリカな健康で、おまけにかなりな病気をしたあとで、たとへどのやうな任務にしろ、軍隊生活をするのは無理だと思つた。あの細い指に軍刀をつかませるのは無残な気がした。ビルマのやうな暑い土地に送つて此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。その粗剛な組織体がともかくも日本から消え失せるやうな事になつた今日、高祖保さんのやうな詩人こそ今居てもらひたいといふ循環心理がぐるぐるおこる。つい二年程まへに私の詩集「をぢさんの詩」を編纂してくれた彼がもう居ない事を此の奥州の山の中で考へるのはつらい。人里離れた此の小屋の炉辺に孤坐して彼を思ふと、その風姿が彷彿として咫尺の間に迫る気がする。彼のしんから善良な生れつきと、高雅清純な育ちと、繊細微妙な神経の洗練と、博くして又珍らしく確かな教養とをつぶさに観たのは、此の「をぢさんの詩」編纂に関してたびたび私の書斎に彼が来てくれた時の事であつた。実に労を惜しまぬ、心を傾けての彼の尽力にはただ感謝の外なかつた。そして一切を委せて安心出来た。わたくし自身のやり得る以上の事をやつてくれた。組方から、校正から、かな使ひから、装幀から、その隅々にまで彼の神経が行きわたつた。昔郷里の江州に居た頃高祖保さんが出してゐた詩誌にわたくしが「その詩」と題する詩一篇かを寄稿した事を徳として、その事を忘れず、死の運命のひそかに近づいてゐたあの頃、わたくしへの報恩の意をそれとなく尽してくれたもののやうな気がする。まだ夜陰の風は肩にさむい。炉の火に柴を加へて彼の冥福をいのるばかりだ。
彼の詩そのものについては、それを語るわかい友人が多いことと思ふ。今わたくしは別に述べない。


高村光太郎全集 第8巻』増補版、筑摩書房、1995年、272-273頁

「江州に居た頃高祖保さんが出してゐた詩誌」というのは、彦根中学卒業後の浪人時代に高祖が主宰していた『門』のことである。1929年1月から翌年12月までの間に計8冊発行された。
その記念すべき創刊号の巻頭を飾ったのが、高村光太郎の「その詩」だった。

 その詩


その詩をよむと詩が書きたくなる。
その詩をよむとダイナモが唸り出す。
その詩は結局その詩の通りだ。
その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。
その詩は雑然と並んでもゐる。
その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
その詩は奥の動きに貫かれてゐる。
その詩は清算以前の展開である。
その詩は気まぐれ無しの必至である。
その詩は生理的の機構を持つ。
その詩は滃然と空間を押し流れる。
その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
その詩は姿を破り姿を孕む。
その詩は電子の反撥親和だ。
その詩は眼前咫尺に生きる。
その詩は手きびしいが妙に親しい。
その詩は不思議に手に取れさうだ。
その詩は気がつくと歩道の石甃(いしだたみ)にも書いてある。


高村光太郎全集 第2巻』増補版、筑摩書房、1994年、128-129頁

  • 佐々木靖章 「高祖保主宰『門』の目次と解題―北国ルートの詩人たち(1)」 『文献探索2005』 文献探索研究会、2006年5月

によると、寄稿者には高村光太郎のほか、百田宗治・平木二六・渡辺修三・野長瀬正夫・村野四郎・白鳥省吾・春山行夫安西冬衛三好達治尾形亀之助・野口米次郎・岡崎清一郎・近藤東・木俣修らがおり、同誌は田舎の文芸誌とは思えぬほど充実したものであったことが分かる。
中学時代から百田宗治の『椎の木』に参加していたとはいえ、ほとんど無名の18、9の文学青年になぜこれだけの寄稿者が集められたのだろう。その秘密の一班を詩友・井上多喜三郎の回想から窺うことができる。

寄稿を依頼する手紙の文字や文章などすでに一家の風格をもち、本人を知らない東京の詩人たちは、彼を相当な年配であるとおもつていたようである。

「高祖保君の手紙」(『青芝』 天童高祖保追悼号(1954年11月)収載)より

殊に高村光太郎の寄稿は高祖保を感激させ、「その詩」は彼の作詩の座右銘かつ愛誦詩となった(外村彰 『念ふ鳥 詩人高祖保』 龜鳴屋、2009年、201-202頁参照)。
井上多喜三郎は、この詩が高祖に与えた影響を次のように述べている。

僕はあの高村さんの一篇の詩が、高祖君の天才に拍車をかけ、不朽の詩業を完成させたものだと信じてゐます。

「高祖君の回想」(『龍』高祖保追悼号(1948年2月)収載)より。引用は、外村彰編 『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』(龜鳴屋、2008年)204-205頁より

これが動機となり、詩人としての生涯をなさしめたものと私は信じている。

「高祖保君の手紙」(前掲)より

『をぢさんの詩』出版に対する高祖保の協力は、この時の「報恩の意」なのだった。

ところでこの詩集、残念ながら今ではほとんど鑑賞に堪えない。時局的な言辞が散見される少年少女向けの愛国詩集なのである。戦時中、高村光太郎は、戦争詩・愛国詩を数多く書いており、『をぢさんの詩』の前後にも『大いなる日に』(1942年)・『記録』(1944年)という時局に即した詩集を出している。また、1942年からは文学者の大政翼賛組織・日本文学報国会の詩部会長を務めている。上の追悼文で高村は、「有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。」と他人事のように書いているが、彼自身その組織体の活動に深く加担していたのである。

ちなみに高祖保も他の多くの詩人同様、日本文学報国会の会員に名を連ねており(詩部会所属)、『国民詩』や『辻詩集』といった愛国詩集に作品を寄せている。1944年の第4詩集『夜のひきあけ』は、それらへの発表作を含む愛国詩を中心に編まれたものである。それまでの彼の詩集は100部前後のほとんど自費出版であったのに対し、『夜のひきあけ』は、川上澄生の装幀で2000部商業出版された。詩が、戦意高揚に利用されていた時代であった。

※なお、この詩集にも時局的でない良い詩がいくつかある。ひとつ引いておく。

 独楽


秋のゆふべの卓上にして
独楽は廻り澄む


――青森大鰐、島津彦三郎作 大独楽が
――桐で作られた 鳥取の占ひ独楽が
――玉独楽が
――陸奥の「スリバツ」独楽が
――土湯、阿部治作といふ 提灯独楽が
――伊香保の唐独楽が
――九州佐賀の かぶら独楽が
――三重桑名の おかざり独楽が


まはる まはる
秋のゆふべの卓上にして
独楽が廻つてゐる…


麦酒(ビール)樽のおなかを
ゆすぶりながら 廻るもの
六角の体(たい)を傾(かし)げながら 蹣跚(よろめ)くもの
口笛をふきながら 廻るもの
ころりころりと廻りながら 転りおちるもの
仆れたのち 廻りはじめるもの
廻りながら 仲間に頭(づ)をぶちあてるもの
はやくも寝そべつて了ふもの
寂ねんと
孤り 廻り澄むもの


独楽よ
廻り廻つて澄みきるとき
おまへの「動」は
ちやうど深山(しんざん)のやうな「静」のふかさにかへる
静にして
なほ

――この「動」の不動のしづかさを観よ


秋のゆふべの 掌(てのひら)のうへ
独楽 ひとつ
廻りながらに
澄んでゆく

この詩は、詩人の出征のため未刊のまま残された第5詩集『独楽』にも表題作として再録された(一部異同あり)。高祖保の代表作の一つといえる。