2021年の約10冊

古書の10冊

加藤健『詩集』竹村書房、昭和13年

やわらかに、雪へ、死顔(デスマスク)、 ──自らをいとほしんでゆくのだ。

第六詩集。装幀・挿画は藤田嗣治。詩集も詩もすべて無題。
4年前に石神井書林古書目録で第一詩集に出会って以来、この盛岡の詩人に惹かれてきた。今年全12詩集が揃ったのだった。最後の一冊も石神井書林古書目録より。

本書を含め、詩集5冊の装幀・挿画を藤田嗣治が手がけている。藤田に師事した澤田哲郎の妻は、加藤健の妹・園子(兄と同じく医師)。村上善男『色彩の磁場』によると、盛岡から上京した澤田は加藤健の紹介状をもって藤田のアトリエを訪ねたという。では、加藤と藤田が知り合ったのはいつだったのか。

美術家の村上善男(詩人としては橡木弘)の生家は、盛岡の詩人の生家・加藤医院のはす向かいだった。村上には加藤の記憶があり、詩「鰯」に「銀縁眼鏡の白皙の」若先生の姿を記している。加藤詩の原風景をよく知る村上は、藤田嗣治の装幀を次のように評している。

藤田装、その成果を評価する向きもあるが、私見では、藤田の楽天性と技術至上主義は病床幻想ともいうべき加藤の透明なデリカシーと、とうてい交差し得ないように思われる。

村上善男『盛岡風景誌』用美社、1986年、p.51

「病床幻想」と断じるのはどうかと思うが、藤田の装画・挿画が加藤の詩と必ずしもマッチしていないのは、その通りと思う。

先年、大川美術館で再現された松本竣介のアトリエの本棚に、加藤健の第八詩集『記録』があった。図録によると、加藤の献呈署名入りである。二人にどのような交友があったのか。盛岡の二人の家は、中津川をはさんで近かった。ともに盛岡中学の出身だが、入れ違いに卒業入学しているので学校での面識はない。直接知り合ったのは上京後、松本竣介と親しかった義弟の澤田哲郎を介してではなかろうか。

加藤健はこれまで立原道造との関わり(「盛岡ノート」の旅)において語られることはあったが、藤田嗣治、澤田哲郎、松本竣介、村上善男(橡木弘)らとのつながりも興味ふかい。
ともあれ、加藤健の盛岡を歩きたいと願っているが、疫禍によりのびのびになっている。

加藤健の詩集は12冊のうち6冊が『詩集』とだけ題されていて、同年に2冊出ていたりもするので、もとめる際は書誌に要注意。

【詩集一覧】

  1. 『詩集』詩洋社、昭和6年5月20日(装幀:前田富子)
  2. 『詩集』竹村書房、昭和11年10月25日(装幀:五十澤二郎)
  3. 『詩抄』竹村書房、昭和12年4月30日(装幀:藤田嗣治
  4. 『詩集』竹村書房、昭和12年11月10日(装幀・挿画:藤田嗣治
  5. 『詩集』竹村書房、昭和13年3月25日(装幀・挿画:藤田嗣治
  6. 『詩集』竹村書房、昭和13年9月10日(装幀・挿画:藤田嗣治
  7. 『詩集』詩洋社、昭和14年8月29日(松田幸夫との共著。装幀:深澤紅子)
  8. 『記録』創元社昭和16年8月5日(装幀・挿画:藤田嗣治
  9. 『馬・鯨・鮎』詩洋社、昭和19年3月20日(非売品)
  10. 『りんごの枝に』自家版(臼井書房)、刊行年月日の記載なし(昭和19年
  11. 『鳩笛』加藤健遺稿詩集刊行会、昭和20年11月8日
  12. 『雪』臼井書房、昭和21年1月5日



上記詩集を原本の複写でまとめた全詩集がある。重複する詩は初出のみ掲載。藤田嗣治の挿画は省かれているが、巻末に表紙の写真や書誌などがまとめられている。

  • 加藤健全詩集』川口印刷工業株式会社、1994年

加藤健とその周辺に関する参考文献】

  • 田中規久雄『詩洋五十年史』アポロン社、1973年(上巻)・1978年(中巻1)・1981年(中巻2)・1983年(中巻3)
  • 佐藤実『立原道造 豊穣の美との際会』教育出版センター、1973年(pp.156-163「加藤健の詩」)
  • 佐藤実『立原道造ノート』教育出版センター、1979年(pp.138-219「加藤健の詩と生涯」、初出は「四季派研究」4号・6号)
  • 深沢紅子『追憶の詩人たち』教育出版センター、1979年
  • 村上善男『印壓と風速計駒込書房、1979年(pp.88-100「硝子の羅針儀・加藤健第二詩集考」)
  • 村上善男『盛岡風景誌』用美社、1986年(pp.49-62「母衣の箱─加藤健ノート」)
  • 村上善男『松本竣介とその友人たち』新潮社、1987年
  • 村上善男『色彩の磁場』NOVA出版、1988年
  • 佐藤実『深沢紅子と立原道造』杜陵高速印刷出版部、2005年
  • 図録『松本竣介 読書の時間』大川美術館、2019年(松本竣介の本棚写真と蔵書目録収録)


『河田誠一詩集』昭森社昭和15年

  春

タンサンの泡だつだらう海峡の空は
つめたく暮れた。
なまあたたかいかぜの記憶は
かすんだ雨のなく音。

ボロボロの鳥。
わたしの抱いてねたあなたの肉體は春であつた。

  悲慘の港

朝、水煙をのこして去る。船の纜をあげて、地獄の鬼をのせ、ヒマラヤの白雪を積み、悲慘の港を出づ。
こは、傷つきし者のみ。鬭ひの火焔に髪燒けし者のみ。
われの歡ばしむるところ。われのかなしむところ。
みなとほく洋上にありて、雨にぬれしパン、腐れし牛乳は、水路三日にして下船せし地獄の鬼にのこさせむとせしなり。

悲慘のみなとに行け。
春ふけし夜をこめてゆけ。
街々の酒は苦く、船宿の女は美しからず。
されど、赤黑き愛欲の
つめたく重い花のいのちになかむ。

哭くは人にあらざりき。
燃ゆるは犬にあらざりき。
かくて犬のごとき人のみゆけ、悲慘の港。

うるはしくなつかしき悲慘の港。
われ、かの港にて犯せし殺人の罪科の追放にあまんじ
いまより後、苦惱をしぼる牛を飼はむとし、大陸の沙漠にゆかむとす。

2021年は詩人生誕110年。23歳で亡くなった2月に、詩集とそして詩稿がやってきたのも何かの縁だろう。

縁といえば、稲門に学んだこと(河田は第二高等学院を一年で退学)、詩人が生まれ育った讃岐は妻の郷国であることが、詩人との微かなつながりに思われる。いつか仁尾の港を訪ねたい。

詩人の生涯については青木正美氏の諸著作に詳しい。詩を書かなくなってからは小説に打ち込んでいたようだ。神戸雄一が主宰していた文芸誌「ヌウベル」第一輯(朝日書房、昭和7年)に寄せた小説「浪の雪」(長篇「山雀」の一節)のおわりは、上に掲げた詩「悲惨の港」を思わせる。

そして由利はふと、連絡船から闇夜の海面に積んでゐた眞白い浪の雪を思ひ出したのだ。バタリと玄關にたふれた由利が叫ぶのであつた。
「兄さん、雪が、浪の雪が──」

文芸誌「ヌウベル」が何輯まで出たか知らないが、第一輯は同年末に『小説・エッセイ』と改題され、同一版を用い上製本で再刊されている。



神戸雄一『岬・一點の僕』作品社、昭和2年

  坂の詩

唯一息に驅けあがれよ
蛇背に似る地質の皺を──

第二詩集。発行所の作品社は神戸の自宅。発行者は野村吉哉。発売所はミスマル社でこれは野村の自宅。
装幀は恩地孝四郎。序文を高村光太郎が、跋文を金子光晴と野村吉哉が寄せている。
扉に恩地の蔵書印。


坂井一郎『揺籃歌』木星社、昭和18年

  冬空

北の町、冬は快よく迎へられてゐた。冷たい風のなかを氷蝶がひとひらひとひら…………舞ひ翔んでゐる。私達は瞳を上げる。左様!! ここでは空は氷海なのだ。海は胎動し氷片は降りしきつてゐる。氷海は神苑を取り周(ま)いてゐるのであらう。氷層の罅裂(さけめ)より天使たちは頬を光らせ地上を垣間見てゐる。雪に乗り、雪に染まり、天使たちは舞ひ下りてくるのだ。そして束の間の生命(いのち)を頌(たた)へ崩れて逝く。涯しない冬を循り、零れ流れる天使たちの血潮は雪の影で白熱し飛翔する。あのやうに青冴えて氷蝶が…………。
すべての窓はひらかれてゐる。天使たちの悲歌はたとへようがないであらう。歌は徐かに私達の泉に溶け入り水嵩はふかまつてゆくのだ。そして私達の上空にて時間と空間とが美ごとに交感したとき、泉は清冽な水沫を湛へ鮮かに湧き溢れてゆくであらう。

北の町、そして冬。白い天使たちの土地であつた。冷たい風のなかを流れ…………氷蝶がひとひらひとひら…………レクヰエムのやうに…………舞ひ翔んでゐる。

小樽で詩誌「木星」を主宰した詩人の第一詩集。装幀・挿画は國松登。


石川道雄『ゆふされの唄』半仙戲社、昭和10年


装幀:谷中安規 序文:日夏耿之介

  冬の夜

横丁を曲つたら月がいよいよ冴えて
軒下に雪が殘つてゐた

雪は泥にまみれてゐたけれど
菊の花が一束さゝつてゐた

菊の花はきなちやけてゐたけれど
捨てられたと思へばいとほしかつた

冬の夜更けの裏通り
風流に寂し過ぎる月と雪と花と──


越智弾政『盗まれた市街圖』黎明社、昭和6年

  胎内中毒

骨の芯にはうつろな世紀のニヒルがある
敵として現はれてくる可抗的な事象の前に
血みどろな蜥蜴の焦燥はないが
屈辱的な呼吸は生活に困憊を與へる
呻吟と切齒の眞只中に旗をおし進めることを恐れはしないが
巢だつことのできない物質の商標は
わたしを未熟な潜水夫とする
笑ひは人生の昧爽を日蝕にする


間野捷魯『體温』日本書房昭和8年

  ゆふかた

窓々の硝子をほのかに染めて
夕映は燃え またひとりで消えていつた。

誰もをらない運動場の
あをい靄のあちらで
小使いの子は白い裾をなびかせ
ひつそりと 遊動圓木に乗つてゐる。

  親愛
   農村學童(3)
腕を擴げてみてもこどもらは飛び込んでは來ない。
かつて
親愛がどんなかたちでなされて來たか………
わたしははげしい羞恥の中で
微笑(ほゝえみ)を凍らせそのまゝ腕をすぼめる
默つて 洟汁をすゝりあげて
こどもらはまためいめいに散らばつて行つてしまつたのだ。

  熟鮎

鮎は熟(う)れて
跳ねかへることがもの憂いものになつてゐた
はち切れさうな腹だ
ものくるほしく
岩のぐるりを廻(めぐ)りつゞけてみても何もありはしない。

眼(まなこ)を据ゑて ぴつたり腹を海底の砂泥(すな)にくつゝけて
鮎はしみじみと産卵したいのだ
海へ あのまつ蒼な海へ往(い)にたいのだ。

どこからかさつと時雨れてきた
水の面の樹の影をたゝいて
雨は細かなしぶきをあげて行つた
そして そんな日
よけいにくるほしくなつた鮎の群は
めぐる岩角で
鰭と鰭とをぶつゝけ合つたりするのであつた。

  ある心境

行きゆきて
行ききはまるところ死がある………

さう想ふとき
いつも わたしはほつとする。


※「ほつ」に傍点


『癩者の魂』全生文藝協會編、白鳳書院、昭和25年


多磨全生園入所者による詩と小説のアンソロジー。児童の作文も。
編纂の中心となった光岡良二(厚木叡)から歌人の中野菊夫宛の葉書が挟まっていた。池袋の古本まつりにて。

厚木叡

  傳說

ふか/″\と繁つた樅の森の奥に
いつの日からか不思議な村があつた。
見知らぬ刺をその身に宿した人々が住んでいた。
その顔は醜く その心は優しかつた。
刺からは薔薇が咲き、その薔薇は死の匂ひがした。

人々は土を耕し、家を葺き、麪包を燒いた。
琴を奏で、宴(うたげ)に招き、愛し合つた。
こそ泥ぐらひはありもしたが
殺人も 姦通も 賣笑もなかつた。
女達の乳房は小さく、ふくまする子はいなかつた。

百年に一人ほどわれと縊れる者はあつたが
人々は首かしげ、やがて大聲に笑ひ出した。
急いで葬りの穴を掘り、少しだけ涙をこぼした。
狂つたその頭蓋だけは、森の獸の喰むに委せた。
いつもする勇者の楯には載せられなんだ。

戰ひはもはやなく、石弓をとる手は萎えていた。
ただ ひそかな刺の疼きに 人知れず呻き臥すとき、
祖(おや)たちの猛々しい魂が歸つて來て、その頬を赭く染めた。
宵ごとに蜜柑色に灯つた窓から、うめきと祈りの變らぬ儀式(リテユアル)が
香爐のやうに星々の空に立ち昇つた。

幾百年か日がめぐり、人々は死に絶えた。
最後のひとりは褐(かち)いろの獅面神(スフインクス)になつた。
頽(くず)れた家々にはきづたが蔽ひ
彼等の植ゑた花々が壯麗な森をなした。
主のない家畜らがその蔭に跳ね廻つた。

夕べ夕べの 雲が
獅面神の双の眼を七寶色に染めた。


小林英俊『黄昏の歌』近江詩人会、昭和33年

  幸福
    (武田豊氏へ)
君のもの静かな態度とあの古い人情は
その日の予定をさへ後悔もなく歪めてしまふのだ

君は時代をおそらく間違へて生まれて来たのではないか
野良猫のやうに嚙み合ふせち辛い世に
君は温順であまりにつつましい

耳を病み、眼を病む不仕合せが
君の心を美しく磨いてゐる
僕は君の不幸が羨しくさへ感じられるのだ


西中行久『街・魚景色』思潮社、1998年

  水の幻

骨を抜かれ軽くなったところで
魚は身くずれしている
水底に沈んだままの石などは
一日聞き耳を立てていて
喋らない

波にもてあそばれる浮きが
ひとのまにまに沈んだり浮いたりしていて
ときどき異様な光を発する
水の街
眺めている眼というありふれた図式

流れに乗った食卓では
眼だけを光らせて
残った家族たちがうまく浮かんでいる

濁った空ではみんな魚の息をした