2022年の約10冊

古書の10冊

水戸敬之助『氷河』黎明社、昭和8年

  響

枕に耳をあてゝ
暗い胸の響を聽く
北斗七星が冴えてゐる

  妙な氣持

讀みさしの本を
そつと胸にのせ
指を組んで死んだ眞似する

  雜音

私といふ全部から
凡ゆる雜音が消失して
頭がはつきり澄むことがある
それは孤獨の氷結
集團からの追放で
刹那! 思はず合掌する
祈るためではない
消失した雜音を
一番遠い幼い日の記憶から
順々に喚びかへすためだ

  貧しい友の部屋

お茶菓子さへ無かつたが
机の小さな鏡に
マリヤの白い手が映つてゐた

書肆田髙さんの目録より。(今年から紙の目録をはじめられたようだ。カラーの書影入りでよい)
著者については全く知らなかったが、洋画家という目録の説明と、その簡素な装幀に何となく惹かれて注文したのだった。

佐藤春夫と森三千代が序文を寄せている。発行人は縄田林蔵(農業詩人になる前の)。
自序に金子光晴への謝辞がある。曰く、「あらゆる點で私の最も不安定時代大變お世話になつた金子光晴氏に感謝致します。詩集を出すときは何か書くといふ古い約束でしたが、御多忙のため間に合はなかつたのは殘念です。」
水戸はこの詩集を出したあと、同年8月に「象限」という詩誌をはじめる。翌昭和9年11月発行の第2号まで確認できる。1号・2号ともに、執筆同人として水戸と金子光晴二人の名が記されている。印刷者は縄田林蔵。

「象限」第1号は、詩(野口米次郎「碑銘」・水戸「詩集」・金子「詩章」)、『氷河』の合評(伊福部隆輝・角田竹夫・吉川則比古・深尾須磨子・正岡容・金子が寄稿)、金子の散文詩「龍」、水戸の短篇「幽霊」という構成。金子はここで「何か書くといふ古い約束」を果たす。第2号は水戸の詩のみ18篇掲載。
第1号に掲載された金子の「詩章」は2章からなる「南方詩集」系の詩だが全集未収録。そこで使われているいくつかの詩語が「雨三題」(『女たちへのエレジー』所収)・「無題」(昭森社版『金子光晴全集』第4巻所収)に見える。後年解体されてこれら他の詩に吸収されたか。散文詩「龍」は、未刊詩集『老薔薇園』収録の同名詩と異同あり。初出形だろうか。

金子光晴の例えば全集の年譜などに水戸敬之助や「象限」の名は出てこない。二人はいつどこで出会ったのか。
森三千代の『氷河』序文は1932年(昭和7年)11月4日付で、「私がヨーロツパに旅立つ以前からの知りあひで、既に六年餘のながいつきあひである。」とある。「象限」第1号の『氷河』評「氷河に就いて」で金子は、「佐藤春夫氏の家であつて以来」「水戸君の詩を透して僕は、北國といふものを考える」と書いていた。これらを念頭に、金子の自伝類を読み返す。──と、『どくろ杯』にそれらしき人物を見つけた。

夜も、昼もけじめのないそんな私たちの生活のなかに、邪魔がとびこんできた。佐藤春夫を訪ねて話していると、傍らにみしらぬ青年が坐っていたが、私が辞して表に出ると、その青年が追いすがるように話しかけた。ゆくところがないから一晩泊めてくれという。笹塚にかえって心待ちしていたが、訪ねてこないので、私が一応そのとき拒(ことわ)ったので、他のあてがあったのかと思っていると、十一時すぎになって訪ねてきた。秋田県横手の人で、小娘に惚れられそうなのっぺりとした痩浪人といった風態のM君という青年で、子供の遊び場だった三畳に泊めると、そのまま居ついて、一晩が半歳になった。食事に出てくるだけで三畳にこもりきったその男は、いつ出てゆくともわからず、尻をおちつけてしまった。

中公文庫(改版)p.89/全集第7巻 pp.49-50

この「M君」が水戸敬之助であろう。上海へ旅立つ前に引導を渡したと同書にあるので、つまり1926年(大正15年)の秋から1927年(昭和2年)3月ごろまで笹塚の金子宅に居候していたことになる。幼子のいる貧乏所帯にはさぞかし「邪魔」だったろう。
※補記:原満三寿『評伝金子光晴』(北溟社、2001年)でも「あつかましい浪人者」と言及されているが、「水戸啓之助」と名前に誤字がある。(p.162)
だがその後の金子夫妻の長い東南アジア・ヨーロッパ放浪を経てもなお交友が途絶えることはなかった。「象限」第1号の正岡容の『氷河』評によると、同詩集が出てまもなく、金子は正岡と連れ立って水戸を訪ねている。

『氷河』「象限」よりのちの詩業は詳らかでない。
太平洋画会・示現会の画家としての略歴がこちらにある。(『氷河』について記載あるも刊行年が間違っている)
戦中は中和国民学校(現・墨田区立中和小学校)で美術教師をしていた。疎開時のエピソードがこちらで読める。
絶筆となった画「庭」をこちらで見ることができる。

奇しくも、水戸敬之助と金子光晴は同年同月に亡くなった。(水戸は1975年6月7日、金子は6月30日没)


丹羽哲夫『緑の假睡』詩文學研究會、昭和14年

  午後の傾斜

見知らぬ微風のほとり
砂丘の午後の傾斜に
鳥の趾跡も既になく
雲は明日のやうに低い

僕のノオトは斜線に始まる
抛物線の兩端では
インクに滲みた話し聲
僕の聲はとどかない

むしろ砂岳の麓に
一箇の哲學的な花を植ゑ
流れない川に
石と共に流れやう

  眼覺め

わたしはわたしの靑春(はる)を思ふ
それは陽光(ひ)に透かされた私の指である
わたしはわたしの指に沿つて歩く
あなたの影がわたしの進路(みち)に透映(うつ)つて………

小鳥の唄がわたしの影を覆つて
潮騒にも似た夢がわたしの心に滿ちる

わたしは眼覺めなければならない
わたしの指はわたしの風景の周圍に運動する
それはわたしを覺ますためにわたしを眠らせる

故丹羽哲夫略歴

 本名博。大正五年二月十六日愛知縣彌富町に生る。明倫中學、名古屋藥學専門學校を經て現在東京帝大藥學部専科生として研究中昭和十七年十二月二十八日逝去。
 詩歴としては昭和十一年詩誌「偶像」を友人木下夕爾、最上八平等と發刊せしことあり。昭和十二年春、詩文學研究會創立されるや直ちに會員として參加、「詩文學研究」に幾多の詩作品と評論を發表して現在に到る。著書として詩集「綠の假睡」(昭和十四年十月刊)一巻あり。

「詩文學研究」第15輯(昭和18年9月)p.89

石神井書林さんの目録より。
梶浦正之の「詩文學研究」に創刊から加わる。同じくこの詩誌に拠った木下夕爾は名古屋薬専の同窓。『緑の假睡』と木下の『田舎の食卓』は、詩文學研究會からほぼ同時に上梓されている。ともに梶浦正之が序文を寄せた。
丹羽の没後、「詩文學研究」第15輯で追悼特集が組まれた。最上八平・小林正純・梶浦正之が追憶を綴っている。木下夕爾は、詩「田舎の食卓」一篇のみを寄せた。

  田舎の食卓
  ──生前の丹羽哲夫に──
          木下夕爾
乾草いろの歳月が燃される
僕のまわりで
あの蜜蜂の翅(はね)の音が
僕を煑る
悲哀の壺で
あゝ とろ火で

「生前の丹羽哲夫に」の部分は、詩集『田舎の食卓』(詩文學研究會、昭和14年)では「TO my T. Niwa」となっていた。丹羽との友情を記念する作。


矢野文夫『鴉片の夜』香蘭社昭和3年

  酒場
    ──好んで酒場と工場を描く長谷川利行氏に──

バツカスよ
お前は馬鹿だ

醉へば
お前の山羊鬚なんぞ忘れてしまふ

バツカスよ
空のビール樽かゝへて
早く昇天しろ

  暗らい雨

暗らい雨がやつて來た

私は納骨堂のやうに
私の魂を陰鬱にとざしてしまはう
そして黑い光で物を考へやう
一日光の落ちて來ない窓から
高くかぎられた大空の一片をのぞくやうに

暗らい雨がやつて來た

巷々を納骨堂のやうに
黑くとぢこめよ
巷の浮氣な幽靈共を
屍衣で蔽へ

第一詩集。序文・三木露風、装幀・恩地孝四郎、挿画・長谷川利行(「農園」・「煙突のある風景」)


井上多喜三郎『花粉』靑園莊私家版、昭和16年


限定30部のうちA版(1~6番)の5番本。肉筆装画・阿久津昌太郎。
2022年は多喜さん生誕120年だった。(1902年(明治35年)3月23日生まれ)

  花粉

僕の癖のままに
歪んでゐる自轉車でした

くるつた僕の自轉車に
平氣で乘るひとよ
鶏や犢が遊んでゐる
狭い村道
走りながら
カネエシヨンのやうに手をあげるひとよ

  言葉

帽子の中に言葉はなかつた
帽子もすでに儀禮を越えた
僕等のまわりにもえてゐるお天氣
僕等は氣球よりも輕い
飛翔する
不誠實な言葉の領域から


高森文夫『浚渫船』由利耶書店、昭和12年


題字と序文・日夏耿之介

  冬

マツチをすつたら
牛の匂がして
薄陽のあたつた
枯草の丘に
わたしは寢そべり
山肌と空との切線にむかふ
切ない旅愁に睡り入つた

風の吹く日
野原のなかの
つゝましい小徑をふみ
杉林を通りぬけて
年老つた樵夫(きこり)がみつけたものは
枯木にぶらさがつて
風にゆられてゐる
白骨だつた

  劫

始もなく終りもないやうな晩でした
悲痛なほど 物懶い
僧院からの讀經のやうに
地引網を曳く男女の聲がして
空のいづくにも星影とてなく
思出の 暗く 哀しい晩でした

渚にそつて 際限もなく
わたしはさまよつてゐたのですが
波の穂頭は よせてはかへし
水泡(みなわ)の白齒が氣狂の笑ひのやうで
さくさくと砂を踏んで私は歩いてゐたのですが
それがまるで他人(ひと)の足音のやうに思はれましてね

どこか とても遠くの岬から
燈臺の三閃光が ときをり
忘れられたやうに暗い海面を照らして
たれもその恐しい孤獨にさへ氣づかなかつたのです

思出のなかのやうに
地引網を曳く 男女の聲が
いつまでも耳に纏はりついて
まるで地の底からの呻きのやうでしたがね

單調で 狂ほしい
暗いどこかの濱邊のことで
子供の泣聲さへもしてゐました……


小川富五郎『近世頌歌』書物展望社昭和15年

  靜物

コスモスの
針のごときなる
繁殖を見たり
また色硝子のやうなる
華麗を見たり
圓舞(ロンド)は蝶よりもトンボに秀抜
ミミズ
靑大將
トカゲのごとき
みな地軸をば圓周して
レモンのやうなる
ベヱゼを
せり

  サボテン立體

影を鮮やかに巻いて
その立體は稀有である
亞熱帶の月夜に笑聲がする
やがて寄添ふ二個のかげが浮び
それらは立體の影の眞上に來ると
──間隙のない直線となる
言語よ
この熱風のやうなヱモーシヨンにマイナスされる
音樂よ
この强烈な無韻の律動に音(ね)をうしなふ
砂にパツシヨンの電子は撒かれて
その立體の影の眞上へ
直線は大きくそのままに折れる

第一詩集。序文・岩佐東一郎。従兄に千家元麿。千家の「詩篇」同人、のち「新領土」同人。「文藝汎論」に寄稿。
戦後、昭和21年6月児童誌「こども雑誌」創刊。誌名を「子供雑誌」「金と銀」と変え、昭和23年3月まで続けた。昭和26年より「歴程」同人。
「青山鶏一」名義で第二詩集『白の僻地』(書肆ユリイカ、昭和29年)、第三詩集『悲歌』(詩と文学社、昭和41年)。昭和50年筆名を小川富五郎に戻す。選詩集『小川富五郎詩集』(風書房、昭和54年)。昭和61年9月18日死去、81歳。第一詩集のころより眼疾を患い、目が不自由だった。
以上、「歴程」の追悼号(341号、昭和62年3月)に拠る。


丸山豊『孔雀の寺』金文堂出版部、昭和22年


敗戦後タイのキャンプで医書にローマ字でしたため持ち帰った戦旅回想の四行詩28篇と戦中の作5篇。
「私にとつては永久に捨去ることのできぬ素描帖」(「巻末の言葉」より)

  疼痛
      ボルネオ

潮が干いた原始の渚
私の孤獨な足跡で
朱い小魚が泳いでゐる
朝の傷口が泳いでゐる

  孔雀
      ビルマ

羽根にちりばめた千の眼で
いつもおのれを見きはめてゐる
いたましいかな 野の孔雀
美しいかな その虛勢


森竹夫『保護職工』風媒社、1964年

  保護職工

働いてゐるこの機械は家庭用シンガーミシン臺ではない
  旧式な製本の安機械
彼女は磨き齒車に油を注(さ)す
埃をうかべた日光が漸くさぐりあてるくらがりで
だまりやさん
だまりやさん
だけどわたしはお前がぢつと何をこらへてゐるのか知つてるの

十六歳未満だから保護職工
何てかがやかしい名だ美しい名だ
殘業はたつぷり四時間
活動小屋のはねる頃になつて
半分眠つたこの保護職工は繩のやうなからだで
  露地から電車にたどりつく

ガスのたまつた神田の工場街では雀もあそばない
十一月に入つて冷たい雨がふり出した
通りがかりに見ると彼女は今日も見えぬ
ぢつと光をこらした機械の上におどろくべき鮮明さで
  保護職工の指紋がついてゐた

〈昭和四年十二月・一九二九年版「學校詩集」所収〉

北満から乞食同然の様で避難してきた多くの日本人救済のために、発疹チフスの巣くつである難民居住区のただ中に赴き、感染、高熱のため意識不明のまま死んだ。虚弱な父を危険を伴う仕事に駆りたてたものは、若き日、貧民窟の人々・保護職工・辻君、それら不幸に苦しむ者たちに寄せたあの「愛」ではなかったろうか。買ってきた古本を酒精で消毒しなければ気のすまなかった父が、虱の猖けつする難民地区を駆けまわらずにいられなかったのは、不幸を黙視できぬ父のヒューマニズムであったように思えてならない。

富田窿「父・森竹夫の想い出」より(同書 p.48)

三男・三樹もまた詩人となった(三木卓)。


立花種久『水の夢、その他の夢』海溝出版会、1981年

 あるふと翳った真昼、その影のなかに見つけたアクアリウムで、緑色の水は永遠に鎮まっている。そこに睡る時間。魚影もなく、藻のゆらぎもない、太古からの時間。その時間が夢の逆児を産み落とす。

「水の夢」より


黒部節子まぼろし戸』花神社、1986年


注文後、郵便局の配達記録だけが完了になって数日がすぎる。なかば諦めていたところへ、不意に届けられてきたのだった。
黒部節子の詩集だから、そんなこともあるかと思った。

紗の世界はいつも多少霞んでいて
物事は遅々と ずれていて

まぼろし戸」より


新刊の約10冊

詩と思想』7月号が高祖保を特集。商業誌で特集が組まれるのは初めてではなかろうか。私は高祖の彦根時代というテーマをいただき、小文「湖べりの去年の雪──高祖保と彦根の詩景」を寄せた。