2023年の約10冊

古書の約10冊

隅江三郎『詩抄』私家版、昭和14年


  老いたるノビオ

雲の室(へや)から
私は降りてゆく
かたくなな灌木の
隧道をぬけて。
あしもとの空隙で
私の脚は纖(ほそ)い脈になる。
ともすれば
退(の)いてゆく空
それにも似てゐる
私の耳がら。
私の近眼鏡(ぐらす)も、枯れた。

風と、芒の
視界を掠めて
私は登場を遲れた
星色の夜。
遠く、近くを織る
海のMADRIGAL………を、
錆びたその日の
追憶に聽く。

歌よ。おお。海の。
海に、はな展(ひら)く、火龍か。
その鱗(うろこ)雲よ。
繰れば日誌は
むかしのままに、
涯ない襞をなして
還つてゆく。

ノビオ。
とは言ひ
私は索(たづ)ねあてたのに
若い柔(うつく)しい、薔薇いろの兒を
あなたは抱いてゐる。
恐らくは
父に似てゐる
この兒の眼を
私はしづかに
閉ぢてやらう。………

さて、サヨナラを換(かわ)しながら
私達はむかいあふ
すぐ別れるために。
歩いて來た路の
距離ほども
私はあなたに
言ひたいのだが。

ああ。雲の邦へ
はかなく搖れて
私は昇(かへ)る
あなたの頬に泛いた
雪片を數へながら。

註 ノビオ 西班牙語(情人)とも譯すべきか。

  にくたいの詩

をとめは法螺の貝ふき
をとこは木魚たたいて
ふたりとも
口をあいてる

  歴史
  ──一戸玲太郎先生に

銃眼から花片(はな)が咲いた
あをい蝶が掌(て)を射(う)たれた
銃坐を背に兵士(ひと)は去つた
拂曉(あさ)──陣地は、崩潰した

隅江三郎は大正3(1914)年、弘前市生まれ。本名工藤正三郎。弘前中学時代より文学に親しむようになり、詩歌を作る。「実朱姜」(ミス・京)「岬三郎」などを筆名とする。
昭和8(1933)年、第二次「北」、「府」に参加。第三次「椎の木」にも投稿。このころ一戸謙三を知り、野村二三、植木曜介、船水清らと交友。筆名を「隅江三郎」とする。
昭和14(1939)年、岩手医専卒業。岩手病院整形外科教室(岩手医専附属病院)勤務。青森第五聯隊入隊、軍医として山形の部隊に配属され、満ソ国境の綏陽駐屯部隊へ派遣。同年12月、盛岡の友人三浦博の編集により『詩抄』刊行(限定100部)。
昭和18(1943)年、結婚のため一時帰郷。妻をともなって綏陽へ戻る。その後フィリピンへ派遣。
昭和20(1945)年6月30日、ルソン島の戦いへ派遣されるが、上陸前に輸送船が撃沈され戦死。派遣前、マラリヤ罹患により残留をすすめられたが、責任感の強い彼はそれを断ったといわれる。

【参考文献】

  • 青森県詩集 下巻』船水清ほか編、北方新社、昭和50年
  • 坂口昌明『みちのくの詩学』未知谷、2007年


「象限」第1巻 水戸敬之助編、象限発行所、昭和8年8月15日/第2巻、昭和9年11月20日


  畫

何處からでもいゝ
バア!

子供が顔出すといゝ

(第1号所収)

  室内

飾棚の上に玩具(オモチヤ)の象が載つてゐた
象は光るナイフをふんまへてゐた

枕の白さに氾濫した黒髮で
狂おしく兩手を洗ふ女

飾棚の上の玩具の象はフランネル
恐ろしい重さでナイフをふんまへてゐた

(第2号所収)

「象限」については昨年、水戸敬之助の詩集『氷河』と共に紹介した。
第1号に『氷河』出版記念会の写真が掲載されている。

佐藤春夫・井上康文・金子光晴・大鹿卓・森三千代・伊波南哲・野澤冬歌・臼井元嗣・大坂連次郎・縄田林蔵が発起人だったようで、40余人が集ったと水戸は第1号の後記「ふらぐめんたる」に記している。
写真中央が水戸敬之助。向って左隣は森三千代。水戸が抱いているのは森乾だろう。水戸は乾がまだ乳呑み児のころ金子宅に転がり込んで半年ほど居候したのだった。


野澤冬歌『冷下地層』詩之家出版部、昭和7年


装幀:恩地孝四郎
水戸敬之助の『氷河』出版記念会にも顔を出していた野澤冬歌の第一詩集。

  愉悦の一角

塵はどこの家でも裏隅へばかり捨てられた
市の空地と云ふ空地には
日毎うず高く黑い小山が築かれてゆく
臭いのは
やつらの怒りたぎつた聲だらう

ごとごと街から海岸の埋立地
微かな肌と肌を吸ひ合せながら
何か強く物言ひたげに運ばれて行くそれら
それら一つ一つの悲憤のかたまりが
廣い海の一角に
やがてごつちり重い陸地を突き出すだらう

泣くよりも醜く唸るのだ
どんなに隅へ隅へと除き去られても
塵は
地球の眞ん中に在る

  道

地盤が低い。道は狹くて泥だ。圓タクが通らぬので
誰も彼も殘らず歩いて行くのだ
朝、狹い露路の奧から
二人三人と出て來た連中で
電車通り近くには長い行列が出來あがる
所がこゝまでは誰も默り込んで
同じ樣に急ぎ足で肩を竝べて來るが
急に廣い騒々しい電車道
どつと押し出されたら最後
蜂の巣でも突いた樣に
ツイと圓タクへ乘る人と
電車の吊皮へぶら下る組と
まだ歩き續けて行く連中と
ぴつたり區別されるのだ

府下から市内へ 長い電車道の兩側に續く
低い澤山の町々から
こうして一個一個ふるい拔かれた仲間が
車輪の廻る樣に朝のかさなる毎に
熱くなる
太くなる
默つて長い行列になる!

発行所は詩之家だが、印刷は黎明社の柴伊穂利で、発売所も黎明社。野澤ははじめ詩之家で詩を書きはじめたが、のちに黎明社の「黎明調」「詩壇」にも属した。そのため佐藤惣之助が序文を、黎明社人脈の縄田林蔵と伊波南哲(詩之家でも親交があった)が跋文を寄せている。
野澤冬歌が水戸敬之助の『氷河』出版記念会に参加したのは、両書とも柴伊穂利が印刷し、黎明社が同時期に販売を手がけた縁からだろう。水戸は黎明社の「黎明調」や「詩壇」に作品を出していたわけではなく、「詩誌には餘り發表されず畫を書き乍ら精進」(「詩壇」第2巻第1号(黎明社、昭和8年1月)「詩壇消息」欄より)していたそうなので、詩人同士の親交はなかったのではないだろうか。


黎明社(のち黎明調社)という名の版元は同時代に複数あるが、こちらは歌人の望月一清が資本を出して両国に設立した印刷・出版所。詩人の吉川政雄や縄田林蔵、歌人の柴伊穂利らがここで働いた。
野澤冬歌は明治43(1910)年、長野県上伊奈郡高遠町(現・伊那市高遠町)生まれ。家業は左官屋だった。詩に憧れ上京、東洋大学中退。第一詩集上梓後、煙突屋や金物屋などを生業とする。昭和18(1943)年、第2詩集『熱風』発表(愛国詩が多い)。以降森山一名義。戦後は金物問屋で成功するが、昭和42(1967)年倒産。以後商売は長男に譲り詩作に熱中。昭和49(1974)年進行性筋ジストロフィー身体障害者を守る会「長い道の会」結成、以後その運動に献身する。昭和53(1978)年『宮澤賢治の詩と宗教』発表。昭和55(1980)年死去。

【参考文献】

  • 小野寺逸也「詩人縄田林蔵の半生」(『歴史と神戸』(第32巻第4号、神戸史学会、1993年8月)所収) ※黎明社について言及あり
  • 「黎明調」第15号(森山一追悼号)黎明調詩の会、1981年


長崎浩『裏街』(復元版)地下水出版部、昭和49年

原本は昭和7年、犀発行所よりガリ版で100部刊行。

  年寄り

年寄りは はぢめ
茄子に胡瓜はいいかッすと
その下宿屋の勝手口に入つてきて
ほうか いらねのかッす と出て行つた
すぐノソノソとひき返してきた時こんどは
女ッ子はいいかッす
みんなきよとんとしてしまつた
その年寄りは縁側にどつかり腰をかけ
孫娘を女中においてくれといつた
百姓はあがつたりだと大きな息をついた
みんな やつとわかつて笑つた
女中はいらないよといはれて
年寄りは重い腰を上げ
ほうか いらねのかッす といつて
またノソノソと通りへ出ていつた
強い外光の中によぼよぼしたその後姿は笑へなかつた。

  裏街の詩

淡雪は豆腐屋のラツパの上で消える。
街では大変なことがもちあがつてゐた。
萬引きだ。
赤ん坊背負つた女乞食だ。
さあ出せッと雜貨屋がこづいた。
女の顔がひん曲つた。
背中の子は泣きたてる。
つぎはぎの襟を誰かぐいッとひつぱつた時
ふところからポロリと落ちた。
それは赤い毛糸の子供帽子だ。
みんなハッと見る、
瞬間女乞食はポンとその帽子を足蹴にし、
おう おう おうと
泣く子をゆすりながら歩き出した。
雪が背中の子の小さな頭の生毛で濡れ光つてた。

長崎浩は明治41(1908)年、新潟県新津生まれ。村松に育つ。
昭和3(1928)年より山形県立図書館で司書をしていた。はじめ「山形詩人」「北方」等に抒情詩を書いていたが、東北農村の窮乏を目の当たりにし、また真壁仁と出会い、作風がリアリズムへ旋回。昭和3~9年、「朔北」「犀」などを主宰。昭和11~20年台湾で「台湾文芸」の編集にあたる。台湾文芸協会理事。昭和21年引揚げ、帰郷。
詩集『裏街』の原本刊行に際しては、「犀」で一緒だった詩友・真壁仁が刻字・印刷・製本等の一切を引き受けた。跋文も寄せている。この復元版も、真壁の手元に残されていた一冊をもとに、真壁の手によって発行された。
以上、長崎浩「あとがき」・真壁仁「復元版について」・本書奥付の略歴より抜粋編集。

松永伍一が『土魂のうた』(新潮社、昭和45年)で「年寄り」を引いてこう書いている。

長崎浩の詩は淡いかなしみを漂わしたところに作者の感傷も見えるが、売られていく娘たちの心情は、天保年間に越後の村々でうたわれた「瞽女くどき」によって見事に代弁されている。


杉山平一『夜学生』第一藝文社、昭和18年


  硝子

 何が 私を追ひつめるのだらう 自分の仕業をにくみ 恥ぢ 責め すべてのものから謙遜し 逃避し 自分をかき消してしまひたい 自殺のいざなひでもなく 深い山に隱棲する孤高でもない 黑衣の人が夜の闇の中へ溶けこんで行くやうに この白日の中へ溶けこんでしまひたい それは 小さな水溜りを殘して消えて行く氷のあの感傷でもない しづかに拭ふうちに見えなくなつてしまふあの質のいゝ硝子のやうに消えたい 粗忽な人はうつかり手をさしのべて コツンと固く 少しばかり冷たく はじめてその存在に氣付くだらう あゝ 何かゞ私を追ひつめる 私は拭く 微塵に碎ける誘ひに耐へて私は磨く しかもなほその底から曇つてくるこの霧のごとき憂欝は何か

時局を意識した詩もあり、時局柄捨てられた詩もある(あとがきより)が、昭和18年という年に高い純度の抒情が保てたこの詩集は戦時下文学の珠玉であろう。


『白崎禮三詩集』青山光二富士正晴編、発行人・富士正晴、昭和47年


題字:富士正晴

  髑髏

身も弛(たゆ)み 吐息に深く 噎ぶとき
つと あらはれる 不氣味な髑髏
心の底の 隅(すみ)隅までも
見透すやうな その眼(まなこ) 冷(ひややか)な

虚(うつろ)なその眼(め)は 虚空に放たれ
重く苦しい 沈黙(しじま)をついて
飛び 木霊する 清い征箭(そや)
矢は適確に 的を貫き

それは髑髏の 投げる侮蔑か
聊の 情(なさけ)もまぢへぬ 燦たる征箭に
堪え得ず 潰(つひ)え 喘ぐもの

否否血塗れ 髑髏よつねに わが 胸を
ともすれば そなたを抱いておろねぶる
この 愚しい 腕を逃(のが)れて

  屍

魘されながら ねむつてゐた
魔女の 冷い むくろを抱き
爛れた肉の 匂ひに痺れ
かつての姿を 空しく夢みて

清め捧げる 血に浴みして 心の儘に
空の深みに 翔り去る
眸に忘我の 蔭と湛へた
天女に見紛ふ 姿を夢みて

淫らな望みに縛られて
女は 妖しい 魔性を失ひ
なほも 執拗く 渇きに喘ぎ

心を鎔す ああ この麻酔
濃血を啜り 死ね 妻よ
命の 定かな 目覺めの爲に

三高の校友会誌「嶽水会雑誌」、第三次「椎の木」、同人誌「海風」から53篇。
白崎禮三は大正3(1914)年、福井県敦賀郡敦賀町(現・敦賀市)生まれ。家業は薬局。
昭和6(1931)年、三高の文科甲類に入学。同級に織田作之助・瀬川健一郎、一級上に森本薫・田宮虎彦青山光二らがいた。フランス象徴詩に没入し、中学時代級長をつとめた優等生は無頼の文学青年に変貌する。
昭和7年、第三次「椎の木」に詩を書きはじめる。同級の織田作之助と同じ下宿で起居を共にする。昼夜文学を談じ、街を彷徨する生活が続く。
昭和8年、「嶽水会雑誌」に詩を発表しはじめる。一年休学していた青山光二と同級になり、織田作之助と三人の交友が始まる。胸部疾患により同年末から翌年9月まで休学。
昭和10年、青山・瀬川・柴野方彦・深谷宏らと同人誌「海風」創刊。6年続く。
昭和11年、織田と共に留年をくり返した三高を退学。上京して青山と共同生活。ふたりで夜の街を歩き、深更アパートに帰って朝まで書を読み詩を推敲する日々。
昭和13年夏、健康状態かんばしからず、敦賀の実家に帰る。昭和15年春から約1年、信濃追分の「油屋」で転地療養。
昭和16年上京、叔父の紹介で、「読物と講談社」に入社。
昭和18年夏、胸部疾患が悪化し帰郷療養。昭和19年1月20日死去。

以上、青山光二による略年譜より抜粋編集。
織田・青山とのデカダンな関係は、青山の実名小説『青春の賭け 小説織田作之助』に詳しい。

富士正晴とは、三高時代に文芸部の会で顔を合わせた以上の付き合いはなかった。富士は野間宏・桑原(のち竹之内)静雄と同人誌「三人」を出していた。昭和17年に東京で再会して3、4回ほかの友人を交えて飲んだ。そのとき富士は白崎のアパートで詩稿を見せられ、批評を頼まれた。富士はある日、そのことをふと思い出す。そして、白崎の詩集が出ていないことにも気づいた。

 織田作之助が生きのびていたら、白崎と大の仲良しだったから、きっと何とかまとめて出版していただろう。今のわたしにはそのような力もないが、ほっておけば白崎の詩も散逸してしまうかも知れない。せめて、三、四夜の交友の記念のためにも、せめてタイプ印刷ででも、彼の詩集を作っておきたいと思った。
 織田作のほかに、青山光二も彼の仲良しであったから、青山に連絡すれば手許に原稿や切り抜きがあるかも知れぬと思い、連絡すると、あるだけのものを送ってくれた。又、三高の校友会雑誌「嶽水会雑誌」にものっている筈だからと思い、京大教養部の助教授の山田稔に労を患わせてこれもコピイを手に入れることが出来た。

「あとがき」より

山田稔さんの『富士さんとわたし』や「富士正晴という生き方」(『天野さんの傘』所収)にも言及あり。


飯沼文『テスカポリトカ』詩学社、1972年


装幀・カット:辻一

むかし
おまえのミイラを神としている人たちがあったが
おまえを兄弟のように抱きあげ
砂漠のあるところまで連れてゆくのは……
食事のあとの白白しい皿のもので
おまえを手なづけることを思ったが
うっとうしくて
風よけの帽子にもならない おまえ

「猫」より

夫は京大の農業経済学者で「日本小説を読む会」の熱心な会員でもあった飯沼二郎。
山田稔「一徹の人──飯沼二郎さんのこと」(『マビヨン通りの店』所収)で、「猫ぎらい」で「詩を書き絵もよくする夫人」として登場する。


『滋賀詩集』近江詩人会、昭和32年


カット:高橋輝雄
近江詩人会の月例詩話会「詩人学校」80回を記念して企画されたアンソロジー。近江詩人会メンバーほか野田理一ら41人の詩をひとり1ページずつ掲載。


松木千鶴詩集』松木千鶴詩集刊行会、ぱる出版、1998年


装画・版画:竹久野生

  ちくび

夕か暁のやうなひかりが胸間に漾(ただよ)ふやうになった。
角笛が聞こえたり
言葉のない喜びが叫び声を挙げて居たり、
愛といふ愛が完成され、
二つの乳房は噴泉の甘い放射を待ちかまへ。
けれど
をみなのちくびは
たべてしまひたいやうな
桜の実のあかさが消えてしまつた。
叡智のごときものであらうと
そこにはもうまあるい虹が
懸らなかった。

  檻

到るところに檻がある
女が入った檻がある
女の中に檻がある
私の入った檻がある

拳を振り
体を投げ
気狂いのような私がいる
歪んだ檻に私がいる

  氷

あなたは遂に氷となるでせう
見えるやうで見えない
厚い氷と
見えないやうで見える
透明な氷となるでせう
触れるものすべてを
あなたは結晶させ
氷の透明となる
蒼い雪渓の沈黙に
あなたはなる
あゝ
それを覗いたものは
その眼を灼く 皮膚を灼く
ふたゝび消ゆる事のない跡をしるす

松木千鶴は大正9(1920)年、長野県長野市生まれ。間もなく父母とともに東京市向島区墨田町に移り住んだ。府立第七高等女学校に学ぶ。
昭和12(1937)年頃から詩作をはじめ、「日本學藝新聞」、詩誌「歴程」などに作品を発表した。昭和14年アナキスト遠藤斌と結婚。宋世何や辻潤など多くの知友に恵まれた。
戦後アテネ・フランセに学ぶかたわら、日本アナキスト連盟の機関紙「平民新聞」の刊行に編集長遠藤を助け、同紙上に多くの作品を発表した。昭和22年6月から病床に臥し、昭和24年2月2日死去。
以上、略年譜より抜粋編集。


喜谷繁暉『北条』私家版、1969年


須恵器片・紅絹・大福帳の切れ端・縞帳の切れ端・著者の油彩キャンバスの切れ端・著者が着ていたシャツの切れ端・黄色の硫酸紙にそれぞれ詩篇が貼られ、自刻自摺の千代紙を貼った小箱に収められている。
300ほど作られ、材料揃えが大変だったという。(『喜谷繁暉詩集』解題より)

  霊屋

故郷の小川には私の血が流れている
蜆などを底に沈めて
不意に蛇が動き出すと
川は一米ばかりも身をくねらせてそのまゝ動かなくなってしまう
川底には新仏の霊屋の骨が白く突きささっている

喜谷繁暉(1928-2009)具体美術協会の作家だった。
詩業は『喜谷繁暉詩集』(編集工房ノア、2004年)にまとめられている。



新刊の約10冊

図書新聞(3614号・2023年11月11日号)に、『父、高祖保の声を探して』の書評を寄せた。同紙は電子版PDF版でも購入できる。

外村彰『多喜さん漫筆』龜鳴屋、2023年


著者の井上多喜三郎に関する文章を集成。

『忘れたステッキ 武田豊詩選集』澤村潤一郎編、龜鳴屋、2023年


編集と解説を担当。
琵琶湖畔の町・長浜で古本屋ラリルレロ書店を営みながら詩をつくり、「おっちゃん」と呼ばれ愛された武田豊(1909-1988)。眼と耳が不自由だった。
そのひたむきな詩のあゆみを、ラ・リ・ル・レ・ロの5章で辿る。
龜鳴屋本第38冊、置去り詩人文庫5

『いのちの芽』(復刻版)大江満雄編、国立ハンセン病資料館、2023年


初版は1953年三一書房刊。国立ハンセン病資料館の企画展「ハンセン病文学の
新生面 『いのちの芽』の詩人たち」(2023年2月4日~5月7日)に合わせて復刻された。

『趙根在 地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人ハンセン病』原爆の図丸木美術館、2023年


同名写真展の図録。趙根在の自伝的回想「ハンセン病の同胞(きょうだい)たち」も収録。

架空線

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