多喜さんの京都

連休中のこと。上洛の機会を利用して、「多喜さん」こと井上多喜三郎ゆかりの地を巡った。

高祖保の詩友だった多喜さんは、戦後近江詩人会を結成して大野新ら後進の指導に尽力した湖国生え抜きの詩人。一方で、京都のコルボウ詩話会やそこから枝分かれして出来た詩誌『骨』に参加するなど、京都詩壇との関わりも深い。また呉服屋を生業としていたこともあり、京都へは仕入れのため頻繁に通っていた。そんなわけで多喜さんは京都に足跡を残している。

まずは善行堂で、以下を購入。

  • 浦塩詩集』 風流豆本の会、1957年
  • 『栖』「骨」編集室、1962年


これからの道行のお伴にする。
浦塩詩集』は、はじめ1948年に多喜さんの月曜発行所から100部限定で自費出版されたが、これは岩佐東一郎が袖珍本として再刊したもの。戦後ウラジオストクでの俘虜生活中に書かれた郷愁の詩よりなる。
『栖』は、生きものや生活への温かい眼差しにあふれた詩集。多喜さんの詩集ではこれが一番好きだ。装幀を手がけた高橋輝雄も近江の詩人で、版画を能くした人。

6月に龜鳴屋から高橋輝雄の作品集が出るようだ。(そのあと多喜さんの詩集も、そして高祖保の随筆集も!)
善行堂では、ほかに武田豊の『ネジの孤独』(文童社、1961年)も購入。近江の詩人に関心があると事前に伝えていたら、これもどうかと薦めてくださった。長浜の詩鬼・武田豊についてはまた別の機会に取り上げよう。

双林プリント

「週に二、三回は必ず訪れる」*1場所だった双林プリントは、多喜さんの詩友で文童社々主の山前実治が経営していた印刷屋。コルボウ詩話会のテキストや詩誌『骨』のみならず、かつて京都の文芸誌・詩誌・歌誌のほとんどを手がけていた*2ところである。多喜さんが来ると、山前ときまってあたりかまわぬ口論になったという。*3 そんな光景を目の当たりに見ていた大野新がここに就職したのは1957年のこと。世話をしたのは多喜さんだった。
『栖』の奥付によると、双林プリントは当時「御幸町御池上ル」にあったことが分かる。

御池通から御幸町通を北上してみる。

暗い町家だったそうだが、どれだけ上がったところにあったかまでは分からない。一本隣の筋にある三月書房で聞けばよかったかもしれないと、今にして思う。

目疾地蔵(仲源寺)

コルボウ詩話会の会合場所に使われていたという。*4 多喜さんは同会に1950年から53年まで所属。
四条大橋南座の方へ渡って、

四条通をしばらく行ったところにある。

室町


呉服屋・多喜さんが仕入れのため足繁く通った町。呉服問屋が並ぶ。

れんこんや


田中冬二の「老蘇の詩人」で、「詩人は時に仕入の帰りに京都の詩人仲間とれんこん屋あたりで飲むこともある」*5と詠われている居酒屋。「老蘇の詩人」とは多喜さんのこと。詩誌『骨』同人たちとの会合にも使われていた。*6 今も西木屋町三条下ルにある。
ビールのアテに、多喜さんもつまんだであろう名物「からしれんこん」や、琵琶湖産モロコの唐揚げなどを食す。酔いがまわってきたところでおかみさんに聞いてみた。
「おねぇさんはここ何年くらいやってはるの?」
「わたしは先代の娘ですけど、店に入るようになって20年くらいです」
「じゃあ、京都の詩人さんが昔ようここに来はったって聞いたことありません?」
「シジンサンて、ポエムのひと? さぁ、ウチはお客さんのこともよう知らんようなお店ですので」
・・・ともあれ、こぢんまりして居心地も料理もよろしおすので、詩人が行きつけるのもむべなるかなと思った。

イノダコーヒ本店


外村彰氏の『近江の詩人 井上多喜三郎』(サンライズ出版、2002年)に、詩友・天野隆一とのツーショットが掲載されている。ここも行きつけだったのだろうか。

錦市場


『栖』の冒頭にこんな詩がある。

  魚の町

京の錦の魚市場は高倉から堺町柳馬場富小路麩屋町御幸町寺町へと続いている

 八百屋牛肉屋ホルモン肝臓豚肉屋罐詰屋牡蠣屋茶屋乾物屋海苔玉子パン粉屋昆布屋切麩屋鰹節屋魚屋饅頭栗餅屋文房具屋乾物雑魚屋ちょうじ麩屋魚屋合鴨かしわ屋魚屋蒲鉾屋かぶらすぐき漬物屋白赤田舎味噌屋菓子屋八百屋下駄屋カッポ着屋豆腐こんにゃく油揚屋塩鯖乾物屋大豆小豆雑穀屋魚屋に数の子牡蠣屋乾物屋川魚屋味の豆佃煮屋玉子かしわ屋鮮魚コマ切屋魚屋こんにゃく豆腐屋罐詰砂糖屋佃煮屋菓子パン屋縫糸屋八百屋魚屋千枚漬屋促成胡瓜なすび青豆屋ぶりやさわらの刺身はもの照焼屋とろろ昆布屋笹がれい屋バナナリンゴみかん屋しょうがわさび屋牛肉屋雑貨屋新巻鮭の乾物屋魚屋に又乾物屋果物屋鯨肉屋蒲鉾屋焼芋屋酒粕屋せりうど筆しょうがパセリゆずぎんなんトマトなどの青物屋足袋屋湯葉屋餅うどん菓子屋魚屋玉子かたくりパン粉屋魚屋に野菜サラダや天ぷら屋うなぎの蒲焼八幡巻屋焼鳥屋魚屋茶碗屋卯の花かますご屋漬物屋又漬物屋このわたうに屋乾物屋寿司屋ころっけ天ぷら屋魚屋玉子納豆屋かしわ屋魚屋小間物屋湯葉乾物屋青物屋果物乾物屋又乾物屋蒲鉾屋端切屋酒屋罐詰屋天ぷら屋雑貨屋青物屋果物屋玉子屋削りかつを屋寿司屋下駄屋うにこのわた屋各国茶屋漬物屋雑穀屋乾物屋又乾物屋家削りかつを屋魚屋に又魚屋果物屋八百屋かしわ屋青物屋菓子屋魚屋又魚屋あめだき屋牛肉屋魚屋又魚屋蒲鉾屋魚屋照焼屋魚屋に又魚屋湯葉屋荒物屋鯛みそてっかみそ八丁みそ屋うにからすみ屋魚屋乾物屋蒲鉾屋魚屋に花屋果物屋小鳥屋はまぐりに牡蠣屋漬物屋かしわ屋魚屋乾物屋銘茶屋うどん玉子かしわ屋荒物屋菓子屋メリケン粉中華そば天ぷら屋果物屋菓子屋蒲鉾屋に乾物屋又蒲鉾屋

うなぎのねどこのような小路を
奥さんの旦那の妾のストリッパーの親爺の腰弁の女中や小僧の胃の腑がひしめいている

・・・ふぅ。店又店、物又物、人又人に圧倒されながら通りを歩く多喜さんの後ろ姿が目に浮かぶようだ。

玉家


稲荷駅前、大鳥居のすぐそばにある。
詩友・高祖保との悲しい別れの舞台となった、かつての玉家旅館。今では建物がすっかりリニューアルされ、料亭になっている。

  天童訣別記

 突如、天童高祖保から応召状が飛来したので、僕は急遽、伏見の玉家旅館へかけつけたのであつたが、不幸にも面会はできなかつた。その翌日「次の日曜にはおうかがひする」との快電に接したが、折あしく天童が天国への出動のために、つひにはかなき訣別となつてしまつた。


 井上大兄
 態々遠方をお出かけ下さいましたのに、合憎あの日に限つて中隊の将校との会があり、十時すぎに帰宅、何から何までのお心づくしの品々を拝見して、お別れの一箋を交す準備まで、それに夕食の準備まで、至り尽せりのふかいお心持を知り泣かされました。残念さは御想像下さい。
昨日は午後しばらくでも、お目にかかる機会をつくりたく感へてゐましたところ、隊の方の都合で、これも具合がわるくなりもうこの分ではお目にかかれずに終るかとも考へられます。御酒、白米のむすび、煙草、玉子焼、山のやうに見ごとなトマト、みんなそれぞれ大兄のあつい心情が薫つてゐて、それらをまへにして泣かされました。
 今生にして忘れがたいことで、それだけにお目にかかれず終る残念さはたとへやうもありません。(後畧)


 昭和十九年七月十七日附、天童最後の来翰である。毛筆でかかれているので、墨の香いまだにあたらしく、僕の涙をそそるのだ。


『風船』 14号、1948年4月 (『井上多喜三郎全集』 312頁)

料亭の向いに、旧東海道線のランプ小屋がぽつんと残されている。

詩友に会えず肩を落として立ち去った多喜さんの姿、そして、無念さを抱いたままここからビルマへ出征していった高祖保の姿を、この小屋は見ていたはずだ。

*1:井上多喜三郎 「香水社長」 『骨』14号、1958年8月(『井上多喜三郎全集』 井上多喜三郎全集刊行会、2002年、336頁)

*2:インタビュー「双林プリントと詩人たち 正津勉さんに聞く」 『彷書月刊』228号、 2004年9月、4頁

*3:河野仁昭 『戦後京都の詩人たち』 編集工房ノア、2004年、111頁

*4:同上、33-34頁

*5:外村彰 『近江の詩人 井上多喜三郎』 サンライズ出版、2002年、18頁の引用より

*6:河野、前掲書、79頁