古書の10冊
松田幸夫『樺太』詩洋社、昭和13年
夜霧
ほろん ほろん と 鈴の音(オト) 白樺なみきは行くほど霧で
灯(トモシビ)が 霧間(キリマ) 霧間(キリマ)に むかしさまざまを思はせる
知らぬ他國の ふるさとの みんなみんなが肉親(チチハハ)よりもなつかしい夜
幌馬車よ おれも ほろん ほろん と 國境をゆく鈴にならうか
冬の日
野ばら 語らふひとなく わづかにも生きてゐる心躍りで 冬野の野ばら
うち鼓しては とぼとぼと 勲章つけては とぼとぼと 放浪(サスラヒ)の 白雲(クモ)よ 雲よ 空の癈兵
旅してゆく あの町 この町 みんな はかなく さびしく利己(ヒトリ)で生きてゐるんだね
氷原のはて かげろ ゆらゆら たちのぼる ああ ゆらゆら かげろ たちのぼる うれしさよ
啄木鳥
血のやうにも、滴り落ちる熟柿の汁。
こんこんと、 幹えらみして年老いた啄木鳥(ケラ)の聲。
──ともすれば弱まりがちな心をば、自ら勵まして生きてゐるのだ、と、
山道のここにも燃える、 さみしい命、 さみしいうた。
本詩集と加藤健との共著『詩集』(詩洋社、昭和14年)をまとめた豆本『涯 松田幸夫詩集』(秋田ほんこの会、2000年)もあり。
1912年、岩手県玉山村生まれ。盛岡中学、岩手医学専門学校に学ぶ。医専時代に同人誌「天才人」を主宰。第6輯(昭和8年3月)に宮沢賢治が「朝に就ての童話的構図」を寄稿。その礼と新たな原稿依頼のため、昭和8年5月に病床の賢治を訪ねている。
医専卒業後、樺太の豊原町立病院小児科に勤務。
昭和13年には、加藤健とともに盛岡滞在中の立原道造と交遊している。
戦後は秋田で内科医院を開業。
【参考文献】
- 山本和夫『現在詩人研究』山雅房、昭和16年(pp.248-251に詩の引用と評言あり)
- 『涯 松田幸夫詩集』秋田ほんこの会、2000年
- 工藤一紘『秋田・反骨の肖像』イズミヤ出版、2007年(pp.123-129「松田幸夫―『天才人』そして宮沢賢治」)
田邊若男『自然児の出発』抒情詩社、大正12年
島村抱月の芸術座や澤田正二郎の新国劇に所属した俳優は文学青年でもあった。
「私は楽屋のなかで、ヒマさえあれば両耳を指でふさいで本を読み、行く先々の街の図書館をたずね、野や山をほっつき歩いて、詩をつくった。」(田辺若男『俳優 舞台生活五十年』(春秋社、昭和35年)p.86)
同じく漂泊者の林芙美子と出会い同棲するのは、本詩集刊行の翌年のことである。
旅よ、旅路よ
山に隠れ、
海邊に寝ね、
圖書館に這入り、
樂屋に坐る。
ああ、香しい五月の若葉と、
太陽と、
星と、
私の健やかな旅よ、
旅路よ。
一つ地球の
空に浮んだ
秋の雲と
草原に寝ころんだ
私とは
一つ地球の
漂泊者。
長谷川利行『歌集 長谷川木葦集』私家版、大正8年
物の蔭かすかにとづる眼にやどり大きな鰐はしとやかに生く
妄念の新らたまりぬる林間にしばし憩ひて吸ふ煙草かな
河原蓬小石のみちの花茨こゞしく咲けば君を忘れず
女童のうなじをたれて遊ぶ毬裏縁に来て物を思へり
子を抱きものいふわれの唇に幼な手をやりむづかりやまず
憂かりける今日もやがては君ゆゑに心の一部うすらぎゆくか
人知れずくちも果つべき身一つの今かいとほし涙拭はず
確信が出来ないのです確信することはおそろしい固執だからです。
やさしい自分のため自分自身のために勞力を惜しみません
晝の蚊をたゝきつぶせば血のにじむわが掌に青葉のくらさ
夏の日の泥田のてりをてりかへすつゝしみ深き尻からげかな
かた岸の町のあかるさ眼に慣れて廓に近し濁りたる川
藪かげに苺をつめるをぐらさの光さゝねど道はかよへり
夕沈む櫻青葉の影の池どろ龜うかぶ水あかりかも
魂にとぢこもりつゝ落涙す松山の庭鴉啼き過ぐ
湯けむりの飯佛前に供へつゝ生きわび来たり寂しくなれり
矢橋丈吉『自伝叙事詩 黒旗のもとに』組合書店、昭和39年
「マヴォ」のアナキストによる、長詩の自伝。
尾形亀之助との交友について書かれた章「ニヒルのさそい」・「孤独なる流浪(後記)」が個人的には興味深い。
昭和五年(一九三〇年)八月某日
亀之助と優子とかれの三人
銭湯にゆくがごとく家をいでて諏訪湖畔にいたる
旅宿布半の日々 ただこれ黙々として酒をくむのみ
日々ただこれ 芸者をはんべらすのみ
日々ただこれ
死をおもうのみ
かくてありし幾日 また幾日!
先生 高村光太郎の命おびて草野心平来たる
来たりたりといえども言うこともなきは
先生の命ありてなきがごとく
詩心 日常かたりつくしてあますところもなければなり
かくて一日 また一日後
上諏訪駅頭ホームに立つ亀之助と優子と
車中の心平とかれに手をふりて別れをつぐといえども
大月駅ちかく 車掌のとどけきたる電文の曰く
「ショウジ ノアルイエ (遺書がわりの詩集)ノハツソウヤメヨ」
カメノスケ」のちをおぼえず
ただ 亀之助
仙台に窮死せるを知りたるはその後幾年ぞ「ニヒルのさそい」後半
上記は、亀之助が第三詩集『障子のある家』完成後、上諏訪へ出奔した時のことを記している。吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』(木犀社、2010年)で指摘されている通り、2行目の「かれ」が矢橋だとすると、亀之助の伝記的事実に反する。亀之助と芳本優に同行したのは小森盛だからである。戸田桂太『矢橋丈吉を探して『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を読む』(文生書院、2023年)は、『黒旗のもとに』を読み解きながら矢橋の生涯に迫った労作だが、「ニヒルのさそい」について、「全体が虚構的な構造になっているとも考えられる」と述べる。
後年矢橋は、帰郷した亀之助を仙台にも訪ねた。「孤独なる流浪(後記)」にその時のことが記されている。戸田『矢橋丈吉を探して』には、この章の下書きと思われる手書きメモに残されていた矢橋と亀之助の句が引用されている(p.239)。4句あるうちの2句が亀之助の作と推定されている。亀之助資料としても新出ではなかろうか。
衣巻省三『こわれた街』詩之家出版部、昭和3年
序文:佐藤春夫・萩原朔太郎・稲垣足穂
跋文:佐藤惣之助
挿画:衣巻寅四郎
毀れた街
崩れた階段を薔薇が一輪をりてゆく
蜥蜴(トカゲ)めが アスフワルトの皹にのがれた
港の街のまひるどき
ボーツと汽笛がなる
INTRODUCTION
佐藤春夫薔薇と蜥蜴と泪とあれと
自動車の轍のあとに落ちこんだ唯美主義
ちよいと端のかけた常識家
蝶はネクタイにネクタイは蝶にならぬ
こわれた街に こわれた人
きのふのんだたくさんのカクテール
反芻をこぼしながら通行する
FOX-TROT
”HE COMES FROM KOBE”
濱名與志春『診察の耳』昭森社、昭和14年
庭の歴史
木洩れ日が 鎧扉を叩く
園生に 斑點がこぼれる
蝶のとびたつ草むらのやうに陽をうけてうるむスワンの頬の果實
あらはな薔薇をゆする傍らに 野生のままの風姿
水だまりの空に白いベツドが泛ぶ
魚の虜になる ナルシスの胸
新しい庭の史跡がのこされて貴婦人の睫のうへに
聲をひそめる噴水
古い手管の泪をふきあげよ
上田幸法『鉛の鈴』四葉書房、昭和23年
第一詩集。1916年熊本県八代生まれ、1998年没。はじめ小説家を志すが、戦地で詩に転向。中支戦線で左大腿部に貫通銃創を負う。生前12の詩集があった。『戦争・笑った』(1987年)・『ある戦争の話』(1989年)は生々しい戦争詩集。日本現代詩文庫『上田幸法詩集』(土曜美術社出版販売、1994年)で詩業を概観できる。丸山由美子『上田幸法論』(潮流出版社、2007年)あり。
ある裏路次で
あるひはまちかねてゐたのかも知れない。僕は不意に躓いて殪れる。僕の足をすくつたのは? 見るとそれは喪章であつた。間もなく足音が近づいてきた。僕は黙つて拾はれる。男は時計を見て、まだ間に合ふと云つた。
精霊
夕暮の海に石を投げておいたら
忘れないでみんなが集つてくれた
めいめい久しぶりで友だちを慰めようと
いつしんになつて持寄つたものが
どれもこれも揃つて盃のように
小さくへこんでゐたのは哀しかつた
八重雲の上で餅をつきながら
みたされないで
臼には涙があふれ
ぽたぽた
なぎさに音たてる
みんないいんだ
黙つてへこんだ盃のほこりを
袂でそつと拭いて
心にしづく音を受けるのだ
貝殻のように
涙をたゝえるんだよ
門限まで 星たちよ
迎えの羽根をひろげないでおくれ
結末
終ると女はちよつと待つてネ、と僕を待たせておいて、ハンド・バツクの中を探してゐたが、中から五拾錢紙幣を二枚取出した。そしてそれをしばらく揉みほぐしてゐたが、やがてやはらかくなると、はいこれで、と一枚を僕にくれた。僕は默つて受取つた。靖國神社の鳥居の繪がついてゐた。