古書の約10冊
今年は戦後80年、そして詩人・高祖保(1910-1945)没後80年。
ということで、古書の半分は近年入手した高祖保関係の資料から紹介。
「龍 高祖保追悼」第18巻第2号、龍短歌会、昭和23年2月

岡山市の服部忠志が主宰した短歌雑誌。高祖保も同人だった「短歌詩人」の後継誌。
19頁から28頁までが追悼特集。内容は以下の通り。
- 高祖保経歴
- 木俣修「高祖保の想ひ出」
- 八幡城太郎「憶出」
- 井上多喜三郎「高祖君の回想」
- 服部忠志「高祖保の思ひ出」
僧侶でもあった俳人の八幡城太郎が、高祖の戒名の由来をつづっている。
玲瓏院玄鶴天童居士
ある日、談たまたま戒名の話になり、「高祖さんでは玲瓏院がいいですね」と云つたことが、本當になつてしまつた。彼自身こんなに早く玲瓏院を貰はうとは思はなかつたに違ひない。右のやうな戒名をつくつて高祖夫人に送つた。天童は堀口大學先生の「天童高祖保哀悼」といふ詩に據る。けふ、迥かな噴き上げのうへを、一双の鶴が身をひるがへして、夜明けの方へと消えた。ただ、それつきり。だが、そのこゑだけが、ふしぎに黄塵のやうに、ざらざらと心にのこつた。(「孟春」より)
これは「雪」といふ美しい詩集の中に入つてゐる詩であるが、そのころ、何かへもこの一節を書いたことがあり、死後「アカシヤ」へ「堀口大學先生への手紙」にも書いた。わたしにとつては、殊に印象深いもので、作者の心象風景ともいふべき限りない憧憬が、噴き上げと、一双の鶴に象どられてゐる。ざらざらと心にのこる…七月應召。十月七日付の一葉の端書をもらつただけで、あつさりと、それこそあつさりと、翌年一月八日ビルマで戰病死して了つた。ふしぎに黄塵のやうに、ざらざらと…
八幡城太郎「憶出」より
高祖保の戒名「玲瓏院玄鶴天童居士」は、多磨霊園の宮部家(詩人が継いだ母方の叔父の家)の墓誌で見ることができる。

天久卓夫『夏の俤』しなの書房、昭和34

高祖保の故郷・牛窓生まれの歌人の随筆集。高祖とは同年で、幼稚園から終生の友人だった。前掲「龍」の前身「短歌詩人」に高祖を紹介したのは天久卓夫である。
『夏の俤』には「噫、高祖保」という追悼文が収録されている。そこに、高祖が天久の第一歌集『蘆の芽』(昭和8年)に寄せた序詩が引かれている。高祖の第一詩集『希臘十字』(昭和8年)時代の詩風である。
「人は
もの思う蘆である」
あの詩人
パスカルの言葉を思ひ出す。神さま
あなたのお吹きになる口笛は
わたしの耳朶で聖音楽(オラトリオ)をかなで
あなたの歓びの泪が
わたしに雨とふり灑いで
甘美な
天徠の神酒(ネクタル)となる。神さま
あなたは無限の活動體
いや真実を志すものの頂点
善の実体
それよりも高いところの一切空の妙境
宇宙に瀰漫する
さんらんたる美のアトム。神さま
わたしは無知な蘆のひと葉で
楽園の水に涵されて孤りもの思ふ身
そしてあなたは
もの思う蘆の一葉をさへ
優しく揺がせる
温情のカロカガティア
春の微風だ。神さま
そしてわたしは春の微風を呼んでいる
あの若い蘆の芽です
若いあの蘆の芽。
この詩を初めて手にしたとき、私の若いこころは戦いた。このような私の小歌集にぴったり結びつく「詩」を書く才能に驚きもした。彼の不断の詩はこんな私にわかる体の詩ではなかったのである。私はこの詩を忘れていない。彼の遺著を机上に重ねてまず私の頭にうかんだのはこの蘆の芽の詩であった。
天久卓夫「噫、高祖保」より
長田和雄『相貌』三友社、昭和25年

高祖保に捧げられた第一詩集。高祖の妻・徳子への献呈本。

あとがきによると、著者は早大入学後高祖保に師事し、田園調布の自宅にも足しげく通ったという。戦後、中学校の国語教師になったようだ。
巻頭に序詩「ああ 師 高祖保」を掲げている。
序詩
ああ 師 高祖保すでにあなたはいない
私の手にのこったのは
瀟洒な詩集「雪」
書翰一束すでにあなたはいない
貴公子然とした風貌の主
典雅きわまりなき教養の主すでにあなたはいない
天性の詩人
温情の君子
若き詩徒の慈父すでにあなたはいない
──古風な温泉宿
ひぐらしの聲
マダム・シゴオニュの扇──すでにあなたはいない
端然机に坐して合掌する
ああ 師 高祖保
もともと世事にうとい私は、詩に於ても社交の範圍が極めて狭く、いわゆる大家中堅の詩人諸氏とは殆ど交渉を持っていない。私はそれを得意とも思っていないがさりとて、格別不滿にも思っていない。そんな私にとっても忘れ得ない詩人が一人ある。今はなき詩人高祖保である。おさだまりの文學少年で、文藝雑誌の詩壇の選者におだてられて得意になっていた私の精神をめざめさせ、詩の深淵をのぞかせてくれたのも氏であった。早大入學以來、私は足しげく田園調布の氏の門を鼓いた。白皙にして溫厚、理智にあふれたこの詩人は、常に優しい微笑を以て私を迎えて下さった。「先生」と呼ばれることをひどく氣にして「まだ、それほど老いぼれてはいないよ」と徴苦笑されていたが、私はいっかな「先生」と呼ぶことを止めず、いつか默許の形になってしまっていた。戰争が熾烈になって、私は學業半ばに入營し、氏もまた召に應じて遠く南方の戰線に立った。復員後、私は氏がビルマに戰病死したことを知った。私は復員早々激しい精神的ショックに打ちのめされたが、その後追慕の情は年と共に强く烈しく、私はしばしば精神の空白を意識した。詩と訣別することによって、私はこの苦痛から逃れようとはかったが、總ては無駄な努力であった。私はいま、宿命の落し兒であり、「悲しい玩具」である詩の鬼にこづかれながら、はてなき道をさまよっている。それが私に興えられた唯一の贖罪ででもあるかのように……。貧しい私の詩集「相貌」を師はどんな表情で受けとってくれるだろうか。
「あとがき」より
『昭和十八年つはもの日記』陸軍美術協会出版部、昭和17年12月

戦時色濃厚な日記帳。表紙の見返しは「東亜共栄圏地図」、扉には軍人の画、その次に米英に対する宣戦の詔書、中澤弘光描く「靖国の社頭」、愛国行進曲、軍人勅諭、戦陣訓と続く。
日記の欄外には、万葉集や軍人等の歌が毎頁一首ずつ小さく印刷されている。各月のはじめには、特に見開きで詩歌が掲載された。その11月の詩が、高祖保の「山上放列」なのである。向井潤吉の線描画が添えられている。

山上放列
或る砲兵將校の手記わたしは、けふも山の上で、大砲を撃つてゐる。向うの谿(たに)に駛(はし)つた木靈(こだま)は、ゆつくりまた、わたしの手許まで還つてくる。なん百といふ敵兵を一擧にそらへふきあげては、還つてくる。往復はがきのやうに几帳面に。ふるさとにかへる子供のやうに、身をゆさぶりながら。なつかしげに。たのしさうに──巨きな時間が、この瞬間に、ぐつと傾いて蹣跚る。この放心したやうな、美しい時間のなかに身をおいて、しばらくわたしは詩を忘れる。軈てまた、ふいに詩を思ひ出す。還つてくる木靈と一緒くたに。わたしはけふも、山の上で、大砲を撃つてゐる。
「山上放列」は、同年昭和17年6月刊の、戦意高揚を目的とした戦争詩・愛国詩のアンソロジー『国民詩』第1輯に収録されたのが初出である。のち、高祖の第4詩集『夜のひきあけ』(昭和19年)にも収録された(異同あり)。
「或る砲兵将校」とは、かつて金沢で山砲兵の幹部候補生として訓練を受けた高祖自身であろう。実際に出征するのは2年後なので戦場は未経験だが、こだまする砲音に詩を忘れ、やがてまた詩を思い出すと、戦のただなかにおかれた詩人の複雑な心境を想像し、織り込もうとしているように思われる。
「日本詩」第1巻第7号、寶文館、昭和19年12月
征旅
蛾は
あのやうに狂ほしく
とびこんでゆくではないか
みづからを灼く火(ほ)むらのただなかにわたしは
みづからを灼くたたかひの
火むらのただなかへとびこんでゆく
あゝ 一匹の蛾だ
昭和19年6月、それまでの「四季」「歴程」「詩洋」「蝋人形」「文藝汎論」「令女界」「若草」等の詩誌は、戦時下の統制団体・日本出版会の指示により、「日本詩」と「詩研究」の2誌に統合される。
高祖保は「日本詩」の創刊号(6月号)とこの12月号に詩を寄せた。12月号に掲載された「征旅」は、生前最後に活字となった詩である。出征が決まった時の覚悟と心境を詠っている。高祖の長男・宮部修氏は、この詩に父の辞世の声を聞いたと著書『父、高祖保の声を探して』(思潮社、2023年)に記している。高祖保はこの雑誌が出た翌月の1月8日、ビルマにて戦病死する。
「征旅」は高祖の没後、『高祖保詩集』(岩谷書店、昭和22年)所収の未刊詩集『独楽』冒頭に配された(異同あり)。高祖の遺した『独楽』定稿に「征旅」は収められていないため、『高祖保詩集』を編んだ詩友・岩佐東一郎による挿入と思われる。
「詩人石川善助資料」第1号・第2号・第3号、木村健司、昭和52年10月・昭和53年5月・昭和53年12月

石川善助と高祖保の関係が最近気になっている。高祖が彦根で主宰していた詩誌「門」の第5輯と第6輯に、善助が詩を寄稿しているのである。二人はどのようにして知り合ったのか、どんな交流があったのか。追究してみたいところだ。
「詩人学校 故井上多喜三郎氏追悼特集」第190号、近江詩人会、1966年5月

「詩人学校」は近江詩人会の詩話会テキスト。この号には、武田豊、杉本長夫ら近江詩人会のメンバーのほか、井上多喜三郎と親交のあった堀口大學・岩佐東一郎・田中冬二・石原吉郎も寄稿している。
『忘れたステッキ 武田豊詩選集』(龜鳴屋)を編んだ際、彦根市立図書館所蔵の本号を閲覧しに行った。詩でも1作につき半分までしか複写できなかったので、用が済んでも原本が入手できたのはうれしい。
多喜 多喜 多喜さん
あなたはぼくを置いて行ってしまった
大きい物を移動させた
そのあとのように
がらんと抉(えぐ)り取られた空洞感―
返せ 返せ
四月一日 午後一時
多喜さんと同じ道にかかった死の悪魔
詩人を戻せ
エイプリルフールだったと云うて戻せ
もとの詩人にして戻せ
もとの詩人にして返せ武田豊「エイプリルフールだつたと云うて戻せ―多喜さんの葬送の日に誦読する―」より
詩人学校の例会も
なんと淋しくなることか。
風呂敷包みを肩にした
神出鬼没の多喜さんはいない。
だがあなたは生きている。
まぎれもなく生きている。
あなたが残された詩品のなかに
過ぎて行くのは吾々である。
あなたの魂が語りかける間にも
移ろい行くのは吾々である。杉本長夫「詩友井上多喜三郎氏の詩を悼んで」より
四十九日を三日程経ることになるが、この五月二十二日の日曜日に、私たちはいつもの彦根商工会議所のうす暗い和室に会して、これら自作の追悼詩を読みあげては、きびしく批評しあうだろう。いつもの井上さんの席には誰かがごく自然にお茶をおくだろう。声をあげて詩は読まれ、私たちは孤独に自分のなかの井上さんと話しはじめていることに気づくかもしれない。お別れした井上さんとではなく、ひとりひとりのなかにこれからはじまる井上多喜三郎さんと。
大野新「あとがき」より
「ノッポとチビ 黒瀬勝巳追悼号」第49号、河野仁昭、昭和56年9月
黒瀬勝巳がどんなにふざけてみせようと、彼の言葉は愛のはぐれ駒のさびしさに充ちている。そしてそのとき彼は切なく親しい詩人であった。
大野新「黒瀬勝巳に」より
生きるにも死ぬにも
人は多くの場所を必要としない
ただ 眠れるような場所さえあればいいのだ
「愛」などには何の関係もなく!黒瀬勝巳「二十歳の惨歌」より
※編集後記における河野仁昭の引用より



























































































































