2025年の約10冊

古書の約10冊

今年は戦後80年、そして詩人・高祖保(1910-1945)没後80年。
ということで、古書の半分は近年入手した高祖保関係の資料から紹介。

「龍 高祖保追悼」第18巻第2号、龍短歌会、昭和23年2月


岡山市の服部忠志が主宰した短歌雑誌。高祖保も同人だった「短歌詩人」の後継誌。
19頁から28頁までが追悼特集。内容は以下の通り。

  • 高祖保経歴
  • 木俣修「高祖保の想ひ出」
  • 八幡城太郎「憶出」
  • 井上多喜三郎「高祖君の回想」
  • 服部忠志「高祖保の思ひ出」

僧侶でもあった俳人の八幡城太郎が、高祖の戒名の由来をつづっている。

 玲瓏院玄鶴天童居士
 ある日、談たまたま戒名の話になり、「高祖さんでは玲瓏院がいいですね」と云つたことが、本當になつてしまつた。彼自身こんなに早く玲瓏院を貰はうとは思はなかつたに違ひない。右のやうな戒名をつくつて高祖夫人に送つた。天童は堀口大學先生の「天童高祖保哀悼」といふ詩に據る。

 けふ、迥かな噴き上げのうへを、一双の鶴が身をひるがへして、夜明けの方へと消えた。ただ、それつきり。だが、そのこゑだけが、ふしぎに黄塵のやうに、ざらざらと心にのこつた。(「孟春」より)

 これは「雪」といふ美しい詩集の中に入つてゐる詩であるが、そのころ、何かへもこの一節を書いたことがあり、死後「アカシヤ」へ「堀口大學先生への手紙」にも書いた。わたしにとつては、殊に印象深いもので、作者の心象風景ともいふべき限りない憧憬が、噴き上げと、一双の鶴に象どられてゐる。ざらざらと心にのこる…七月應召。十月七日付の一葉の端書をもらつただけで、あつさりと、それこそあつさりと、翌年一月八日ビルマで戰病死して了つた。ふしぎに黄塵のやうに、ざらざらと…

八幡城太郎「憶出」より

高祖保の戒名「玲瓏院玄鶴天童居士」は、多磨霊園の宮部家(詩人が継いだ母方の叔父の家)の墓誌で見ることができる。



天久卓夫『夏の俤』しなの書房、昭和34


高祖保の故郷・牛窓生まれの歌人の随筆集。高祖とは同年で、幼稚園から終生の友人だった。前掲「龍」の前身「短歌詩人」に高祖を紹介したのは天久卓夫である。
『夏の俤』には「噫、高祖保」という追悼文が収録されている。そこに、高祖が天久の第一歌集『蘆の芽』(昭和8年)に寄せた序詩が引かれている。高祖の第一詩集『希臘十字』(昭和8年)時代の詩風である。

「人は
もの思う蘆である」
あの詩人
パスカルの言葉を思ひ出す。

神さま
あなたのお吹きになる口笛は
わたしの耳朶で聖音楽(オラトリオ)をかなで
あなたの歓びの泪が
わたしに雨とふり灑いで
甘美な
天徠の神酒(ネクタル)となる。

神さま
あなたは無限の活動體
いや真実を志すものの頂点
善の実体
それよりも高いところの一切空の妙境
宇宙に瀰漫する
さんらんたる美のアトム。

神さま
わたしは無知な蘆のひと葉で
楽園の水に涵されて孤りもの思ふ身
そしてあなたは
もの思う蘆の一葉をさへ
優しく揺がせる
温情のカロカガティア
春の微風だ。

神さま
そしてわたしは春の微風を呼んでいる
あの若い蘆の芽です
若いあの蘆の芽。

この詩を初めて手にしたとき、私の若いこころは戦いた。このような私の小歌集にぴったり結びつく「詩」を書く才能に驚きもした。彼の不断の詩はこんな私にわかる体の詩ではなかったのである。私はこの詩を忘れていない。彼の遺著を机上に重ねてまず私の頭にうかんだのはこの蘆の芽の詩であった。

天久卓夫「噫、高祖保」より


長田和雄『相貌』三友社、昭和25年


高祖保に捧げられた第一詩集。高祖の妻・徳子への献呈本。

あとがきによると、著者は早大入学後高祖保に師事し、田園調布の自宅にも足しげく通ったという。戦後、中学校の国語教師になったようだ。
巻頭に序詩「ああ 師 高祖保」を掲げている。

  序詩
 ああ 師 高祖保

すでにあなたはいない
私の手にのこったのは
瀟洒な詩集「雪」
書翰一束

すでにあなたはいない
貴公子然とした風貌の主
典雅きわまりなき教養の主

すでにあなたはいない
天性の詩人
温情の君子
若き詩徒の慈父

すでにあなたはいない
──古風な温泉宿
ひぐらしの聲
マダム・シゴオニュの扇──

すでにあなたはいない
端然机に坐して合掌する
ああ 師 高祖保

もともと世事にうとい私は、詩に於ても社交の範圍が極めて狭く、いわゆる大家中堅の詩人諸氏とは殆ど交渉を持っていない。私はそれを得意とも思っていないがさりとて、格別不滿にも思っていない。そんな私にとっても忘れ得ない詩人が一人ある。今はなき詩人高祖保である。おさだまりの文學少年で、文藝雑誌の詩壇の選者におだてられて得意になっていた私の精神をめざめさせ、詩の深淵をのぞかせてくれたのも氏であった。早大入學以來、私は足しげく田園調布の氏の門を鼓いた。白皙にして溫厚、理智にあふれたこの詩人は、常に優しい微笑を以て私を迎えて下さった。「先生」と呼ばれることをひどく氣にして「まだ、それほど老いぼれてはいないよ」と徴苦笑されていたが、私はいっかな「先生」と呼ぶことを止めず、いつか默許の形になってしまっていた。戰争が熾烈になって、私は學業半ばに入營し、氏もまた召に應じて遠く南方の戰線に立った。復員後、私は氏がビルマに戰病死したことを知った。私は復員早々激しい精神的ショックに打ちのめされたが、その後追慕の情は年と共に强く烈しく、私はしばしば精神の空白を意識した。詩と訣別することによって、私はこの苦痛から逃れようとはかったが、總ては無駄な努力であった。私はいま、宿命の落し兒であり、「悲しい玩具」である詩の鬼にこづかれながら、はてなき道をさまよっている。それが私に興えられた唯一の贖罪ででもあるかのように……。貧しい私の詩集「相貌」を師はどんな表情で受けとってくれるだろうか。

「あとがき」より


『昭和十八年つはもの日記』陸軍美術協会出版部、昭和17年12月


戦時色濃厚な日記帳。表紙の見返しは「東亜共栄圏地図」、扉には軍人の画、その次に米英に対する宣戦の詔書、中澤弘光描く「靖国の社頭」、愛国行進曲軍人勅諭、戦陣訓と続く。
日記の欄外には、万葉集や軍人等の歌が毎頁一首ずつ小さく印刷されている。各月のはじめには、特に見開きで詩歌が掲載された。その11月の詩が、高祖保の「山上放列」なのである。向井潤吉の線描画が添えられている。

  山上放列
   或る砲兵將校の手記

 わたしは、けふも山の上で、大砲を撃つてゐる。向うの谿(たに)に駛(はし)つた木靈(こだま)は、ゆつくりまた、わたしの手許まで還つてくる。なん百といふ敵兵を一擧にそらへふきあげては、還つてくる。往復はがきのやうに几帳面に。ふるさとにかへる子供のやうに、身をゆさぶりながら。なつかしげに。たのしさうに──巨きな時間が、この瞬間に、ぐつと傾いて蹣跚る。この放心したやうな、美しい時間のなかに身をおいて、しばらくわたしは詩を忘れる。軈てまた、ふいに詩を思ひ出す。還つてくる木靈と一緒くたに。わたしはけふも、山の上で、大砲を撃つてゐる。

「山上放列」は、同年昭和17年6月刊の、戦意高揚を目的とした戦争詩・愛国詩のアンソロジー『国民詩』第1輯に収録されたのが初出である。のち、高祖の第4詩集『夜のひきあけ』(昭和19年)にも収録された(異同あり)。
「或る砲兵将校」とは、かつて金沢で山砲兵の幹部候補生として訓練を受けた高祖自身であろう。実際に出征するのは2年後なので戦場は未経験だが、こだまする砲音に詩を忘れ、やがてまた詩を思い出すと、戦のただなかにおかれた詩人の複雑な心境を想像し、織り込もうとしているように思われる。


「日本詩」第1巻第7号、寶文館、昭和19年12月


高祖保の詩「征旅」を掲載。

 征旅

蛾は
あのやうに狂ほしく
とびこんでゆくではないか
みづからを灼く火(ほ)むらのただなかに

わたしは
みづからを灼くたたかひの
火むらのただなかへとびこんでゆく
あゝ 一匹の蛾だ

昭和19年6月、それまでの「四季」「歴程」「詩洋」「蝋人形」「文藝汎論」「令女界」「若草」等の詩誌は、戦時下の統制団体・日本出版会の指示により、「日本詩」と「詩研究」の2誌に統合される。
高祖保は「日本詩」の創刊号(6月号)とこの12月号に詩を寄せた。12月号に掲載された「征旅」は、生前最後に活字となった詩である。出征が決まった時の覚悟と心境を詠っている。高祖の長男・宮部修氏は、この詩に父の辞世の声を聞いたと著書『父、高祖保の声を探して』(思潮社、2023年)に記している。高祖保はこの雑誌が出た翌月の1月8日、ビルマにて戦病死する。
「征旅」は高祖の没後、『高祖保詩集』(岩谷書店、昭和22年)所収の未刊詩集『独楽』冒頭に配された(異同あり)。高祖の遺した『独楽』定稿に「征旅」は収められていないため、『高祖保詩集』を編んだ詩友・岩佐東一郎による挿入と思われる。


「詩人石川善助資料」第1号・第2号・第3号、木村健司、昭和52年10月・昭和53年5月・昭和53年12月


石川善助と高祖保の関係が最近気になっている。高祖が彦根で主宰していた詩誌「門」の第5輯と第6輯に、善助が詩を寄稿しているのである。二人はどのようにして知り合ったのか、どんな交流があったのか。追究してみたいところだ。


「詩人学校 故井上多喜三郎氏追悼特集」第190号、近江詩人会、1966年5月


「詩人学校」は近江詩人会の詩話会テキスト。この号には、武田豊、杉本長夫ら近江詩人会のメンバーのほか、井上多喜三郎と親交のあった堀口大學岩佐東一郎・田中冬二・石原吉郎も寄稿している。
『忘れたステッキ 武田豊詩選集』(龜鳴屋)を編んだ際、彦根市立図書館所蔵の本号を閲覧しに行った。詩でも1作につき半分までしか複写できなかったので、用が済んでも原本が入手できたのはうれしい。

多喜 多喜 多喜さん
あなたはぼくを置いて行ってしまった
大きい物を移動させた
そのあとのように
がらんと抉(えぐ)り取られた空洞感―
返せ 返せ
四月一日 午後一時
多喜さんと同じ道にかかった死の悪魔
詩人を戻せ
エイプリルフールだったと云うて戻せ
もとの詩人にして戻せ
もとの詩人にして返せ

武田豊「エイプリルフールだつたと云うて戻せ―多喜さんの葬送の日に誦読する―」より

詩人学校の例会も
なんと淋しくなることか。
風呂敷包みを肩にした
神出鬼没の多喜さんはいない。
だがあなたは生きている。
まぎれもなく生きている。
あなたが残された詩品のなかに
過ぎて行くのは吾々である。
あなたの魂が語りかける間にも
移ろい行くのは吾々である。

杉本長夫「詩友井上多喜三郎氏の詩を悼んで」より

 四十九日を三日程経ることになるが、この五月二十二日の日曜日に、私たちはいつもの彦根商工会議所のうす暗い和室に会して、これら自作の追悼詩を読みあげては、きびしく批評しあうだろう。いつもの井上さんの席には誰かがごく自然にお茶をおくだろう。声をあげて詩は読まれ、私たちは孤独に自分のなかの井上さんと話しはじめていることに気づくかもしれない。お別れした井上さんとではなく、ひとりひとりのなかにこれからはじまる井上多喜三郎さんと。

大野新「あとがき」より


「ノッポとチビ 黒瀬勝巳追悼号」第49号、河野仁昭、昭和56年9月

黒瀬勝巳がどんなにふざけてみせようと、彼の言葉は愛のはぐれ駒のさびしさに充ちている。そしてそのとき彼は切なく親しい詩人であった。

大野新「黒瀬勝巳に」より

生きるにも死ぬにも
人は多くの場所を必要としない
ただ 眠れるような場所さえあればいいのだ
「愛」などには何の関係もなく!

黒瀬勝巳「二十歳の惨歌」より
※編集後記における河野仁昭の引用より


宇田良子『窓』文童社、昭和54年


彦根の老舗旅館「やりや」の女将をつとめた詩人の第2詩集。近江詩人会の最初期からの会員だった。


桑島玄二『少ない雨量』エバンタイクラブ、昭和30年


装画:津高和一


新刊の約10冊

復刻版 詩誌「門」三人社、2025年


高祖保没後80年記念出版。編集・解題:外村彰
高祖保が彦根で主宰していた詩誌「門」全8輯(昭和4年1月~昭和5年12月)の復刻(全1巻)。上の写真で本書と写るのは、唯一家蔵する創刊号。
附録として、「門」以前に高祖が関わった文芸誌「湖光る」と詩誌「処女地」、晩年の高祖に師事した前田静秋の詩誌「聲」も収録。
高祖の詩境の原型、同時代詩に対する眼差し、旧詩壇から「詩と詩論」の詩人たちにまでわたる若き日の交流圏などを窺い知ることができる。

pokan-books.stores.jp

編集工房ノアについてのエッセイを寄稿、アンケート「ノアの三冊」にも答えた。

2024年の約10冊

古書の10冊

松田幸夫『樺太』詩洋社、昭和13年


序文:前田鐵之助
装幀:深澤紅子

  夜霧

ほろん  ほろん  と 鈴の音(オト)  白樺なみきは行くほど霧で

灯(トモシビ)が  霧間(キリマ)  霧間(キリマ)に  むかしさまざまを思はせる

知らぬ他國の  ふるさとの  みんなみんなが肉親(チチハハ)よりもなつかしい夜

幌馬車よ  おれも  ほろん  ほろん  と 國境をゆく鈴にならうか

  冬の日

野ばら   語らふひとなく   わづかにも生きてゐる心躍りで   冬野の野ばら

うち鼓しては  とぼとぼと   勲章つけては  とぼとぼと   放浪(サスラヒ)の  白雲(クモ)よ  雲よ   空の癈兵

旅してゆく   あの町  この町   みんな  はかなく  さびしく利己(ヒトリ)で生きてゐるんだね

氷原のはて   かげろ  ゆらゆら  たちのぼる   ああ   ゆらゆら  かげろ  たちのぼる   うれしさよ

  啄木鳥

血のやうにも、滴り落ちる熟柿の汁。

こんこんと、 幹えらみして年老いた啄木鳥(ケラ)の聲。

──ともすれば弱まりがちな心をば、自ら勵まして生きてゐるのだ、と、

山道のここにも燃える、  さみしい命、 さみしいうた。

本詩集と加藤健との共著『詩集』(詩洋社、昭和14年)をまとめた豆本『涯 松田幸夫詩集』(秋田ほんこの会、2000年)もあり。


1912年、岩手県玉山村生まれ。盛岡中学、岩手医学専門学校に学ぶ。医専時代に同人誌「天才人」を主宰。第6輯(昭和8年3月)に宮沢賢治が「朝に就ての童話的構図」を寄稿。その礼と新たな原稿依頼のため、昭和8年5月に病床の賢治を訪ねている。
医専卒業後、樺太の豊原町立病院小児科に勤務。
昭和13年には、加藤健とともに盛岡滞在中の立原道造と交遊している。
戦後は秋田で内科医院を開業。

【参考文献】

  • 山本和夫『現代詩人研究』山雅房昭和16年(pp.248-251に詩の引用と評言あり)
  • 『涯 松田幸夫詩集』秋田ほんこの会、2000年
  • 工藤一紘『秋田・反骨の肖像』イズミヤ出版、2007年(pp.123-129「松田幸夫―『天才人』そして宮沢賢治」)


田邊若男『自然児の出発』抒情詩社、大正12年


序文:中村吉蔵
装幀:室田久良三

島村抱月の芸術座や澤田正二郎新国劇に所属した俳優は文学青年でもあった。
「私は楽屋のなかで、ヒマさえあれば両耳を指でふさいで本を読み、行く先々の街の図書館をたずね、野や山をほっつき歩いて、詩をつくった。」(田辺若男『俳優 舞台生活五十年』(春秋社、昭和35年)p.86)
同じく漂泊者の林芙美子と出会い同棲するのは、本詩集刊行の翌年のことである。

  旅よ、旅路よ

山に隠れ、
海邊に寝ね、
圖書館に這入り、
樂屋に坐る。
ああ、香しい五月の若葉と、
太陽と、
星と、
私の健やかな旅よ、
旅路よ。

  一つ地球の

空に浮んだ
秋の雲と
草原に寝ころんだ
私とは
一つ地球の
漂泊者。


長谷川利行『歌集 長谷川木葦集』私家版、大正8年



序歌:生田蝶介

物の蔭かすかにとづる眼にやどり大きな鰐はしとやかに生く

妄念の新らたまりぬる林間にしばし憩ひて吸ふ煙草かな

河原蓬小石のみちの花茨こゞしく咲けば君を忘れず

女童のうなじをたれて遊ぶ毬裏縁に来て物を思へり

子を抱きものいふわれの唇に幼な手をやりむづかりやまず

憂かりける今日もやがては君ゆゑに心の一部うすらぎゆくか

人知れずくちも果つべき身一つの今かいとほし涙拭はず

確信が出来ないのです確信することはおそろしい固執だからです。

やさしい自分のため自分自身のために勞力を惜しみません

晝の蚊をたゝきつぶせば血のにじむわが掌に青葉のくらさ

夏の日の泥田のてりをてりかへすつゝしみ深き尻からげかな

かた岸の町のあかるさ眼に慣れて廓に近し濁りたる川

藪かげに苺をつめるをぐらさの光さゝねど道はかよへり

夕沈む櫻青葉の影の池どろ龜うかぶ水あかりかも

魂にとぢこもりつゝ落涙す松山の庭鴉啼き過ぐ

湯けむりの飯佛前に供へつゝ生きわび来たり寂しくなれり


矢橋丈吉『自伝叙事詩 黒旗のもとに』組合書店、昭和39年


マヴォ」のアナキストによる、長詩の自伝。
尾形亀之助との交友について書かれた章「ニヒルのさそい」・「孤独なる流浪(後記)」が個人的には興味深い。

昭和五年(一九三〇年)八月某日
亀之助と優子とかれの三人
銭湯にゆくがごとく家をいでて諏訪湖畔にいたる
旅宿布半の日々 ただこれ黙々として酒をくむのみ
日々ただこれ 芸者をはんべらすのみ
日々ただこれ
死をおもうのみ
かくてありし幾日 また幾日!
先生 高村光太郎の命おびて草野心平来たる
来たりたりといえども言うこともなきは
先生の命ありてなきがごとく
詩心 日常かたりつくしてあますところもなければなり
かくて一日 また一日後
上諏訪駅頭ホームに立つ亀之助と優子と
車中の心平とかれに手をふりて別れをつぐといえども
大月駅ちかく 車掌のとどけきたる電文の曰く
「ショウジ ノアルイエ (遺書がわりの詩集)ノハツソウヤメヨ」
カメノスケ」

のちをおぼえず
ただ 亀之助
仙台に窮死せるを知りたるはその後幾年ぞ

「ニヒルのさそい」後半

上記は、亀之助が第三詩集『障子のある家』完成後、上諏訪へ出奔した時のことを記している。吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』(木犀社、2010年)で指摘されている通り、2行目の「かれ」が矢橋だとすると、亀之助の伝記的事実に反する。亀之助と芳本優に同行したのは小森盛だからである。戸田桂太『矢橋丈吉を探して『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を読む』(文生書院、2023年)は、『黒旗のもとに』を読み解きながら矢橋の生涯に迫った労作だが、「ニヒルのさそい」について、「全体が虚構的な構造になっているとも考えられる」と述べる。
後年矢橋は、帰郷した亀之助を仙台にも訪ねた。「孤独なる流浪(後記)」にその時のことが記されている。戸田『矢橋丈吉を探して』には、この章の下書きと思われる手書きメモに残されていた矢橋と亀之助の句が引用されている(p.239)。4句あるうちの2句が亀之助の作と推定されている。亀之助資料としても新出ではなかろうか。


衣巻省三『こわれた街』詩之家出版部、昭和3年


序文:佐藤春夫萩原朔太郎稲垣足穂
跋文:佐藤惣之助
挿画:衣巻寅四郎

  毀れた街

崩れた階段を薔薇が一輪をりてゆく
蜥蜴(トカゲ)めが アスフワルトの皹にのがれた


港の街のまひるどき
ボーツと汽笛がなる

INTRODUCTION
佐藤春夫

薔薇と蜥蜴と泪とあれと
自動車の轍のあとに落ちこんだ唯美主義
ちよいと端のかけた常識家
蝶はネクタイにネクタイは蝶にならぬ
こわれた街に こわれた人
きのふのんだたくさんのカクテール
反芻をこぼしながら通行する
FOX-TROT
”HE COMES FROM KOBE”

善行堂の山本善行氏により、今年瀟洒な作品集がまとめられた。


濱名與志春『診察の耳』昭森社昭和14年


挿絵:大垣泰治

  庭の歴史

木洩れ日が 鎧扉を叩く
園生に 斑點がこぼれる
蝶のとびたつ草むらのやうに

陽をうけてうるむスワンの頬の果實
あらはな薔薇をゆする

傍らに 野生のままの風姿
水だまりの空に白いベツドが泛ぶ
魚の虜になる ナルシスの胸
新しい庭の史跡がのこされて

貴婦人の睫のうへに
聲をひそめる噴水
古い手管の泪をふきあげよ


上田幸法『鉛の鈴』四葉書房、昭和23年

第一詩集。1916年熊本県八代生まれ、1998年没。はじめ小説家を志すが、戦地で詩に転向。中支戦線で左大腿部に貫通銃創を負う。生前12の詩集があった。『戦争・笑った』(1987年)・『ある戦争の話』(1989年)は生々しい戦争詩集。日本現代詩文庫『上田幸法詩集』(土曜美術社出版販売、1994年)で詩業を概観できる。丸山由美子『上田幸法論』(潮流出版社、2007年)あり。

  ある裏路次で
あるひはまちかねてゐたのかも知れない。僕は不意に躓いて殪れる。僕の足をすくつたのは? 見るとそれは喪章であつた。間もなく足音が近づいてきた。僕は黙つて拾はれる。男は時計を見て、まだ間に合ふと云つた。

  精霊

夕暮の海に石を投げておいたら
忘れないでみんなが集つてくれた
めいめい久しぶりで友だちを慰めようと
いつしんになつて持寄つたものが
どれもこれも揃つて盃のように
小さくへこんでゐたのは哀しかつた
八重雲の上で餅をつきながら
みたされないで
臼には涙があふれ
ぽたぽた
なぎさに音たてる
みんないいんだ
黙つてへこんだ盃のほこりを
袂でそつと拭いて
心にしづく音を受けるのだ
貝殻のように
涙をたゝえるんだよ
門限まで 星たちよ
迎えの羽根をひろげないでおくれ

  結末
終ると女はちよつと待つてネ、と僕を待たせておいて、ハンド・バツクの中を探してゐたが、中から五拾錢紙幣を二枚取出した。そしてそれをしばらく揉みほぐしてゐたが、やがてやはらかくなると、はいこれで、と一枚を僕にくれた。僕は默つて受取つた。靖國神社の鳥居の繪がついてゐた。


亜騎保『動物の舌』岡本書房、昭和36年


装画・挿画:津高和一


清水将文『巡礼』洗濯船石鹼詩社、1985年


「近代詩書在庫目録」田村書店、1986年



2023年の約10冊

古書の約10冊

隅江三郎『詩抄』私家版、昭和14年


  老いたるノビオ

雲の室(へや)から
私は降りてゆく
かたくなな灌木の
隧道をぬけて。
あしもとの空隙で
私の脚は纖(ほそ)い脈になる。
ともすれば
退(の)いてゆく空
それにも似てゐる
私の耳がら。
私の近眼鏡(ぐらす)も、枯れた。

風と、芒の
視界を掠めて
私は登場を遲れた
星色の夜。
遠く、近くを織る
海のMADRIGAL………を、
錆びたその日の
追憶に聽く。

歌よ。おお。海の。
海に、はな展(ひら)く、火龍か。
その鱗(うろこ)雲よ。
繰れば日誌は
むかしのままに、
涯ない襞をなして
還つてゆく。

ノビオ。
とは言ひ
私は索(たづ)ねあてたのに
若い柔(うつく)しい、薔薇いろの兒を
あなたは抱いてゐる。
恐らくは
父に似てゐる
この兒の眼を
私はしづかに
閉ぢてやらう。………

さて、サヨナラを換(かわ)しながら
私達はむかいあふ
すぐ別れるために。
歩いて來た路の
距離ほども
私はあなたに
言ひたいのだが。

ああ。雲の邦へ
はかなく搖れて
私は昇(かへ)る
あなたの頬に泛いた
雪片を數へながら。

註 ノビオ 西班牙語(情人)とも譯すべきか。

  にくたいの詩

をとめは法螺の貝ふき
をとこは木魚たたいて
ふたりとも
口をあいてる

  歴史
  ──一戸玲太郎先生に

銃眼から花片(はな)が咲いた
あをい蝶が掌(て)を射(う)たれた
銃坐を背に兵士(ひと)は去つた
拂曉(あさ)──陣地は、崩潰した

隅江三郎は大正3(1914)年、弘前市生まれ。本名工藤正三郎。弘前中学時代より文学に親しむようになり、詩歌を作る。「実朱姜」(ミス・京)「岬三郎」などを筆名とする。
昭和8(1933)年、第二次「北」、「府」に参加。第三次「椎の木」にも投稿。このころ一戸謙三を知り、野村二三、植木曜介、船水清らと交友。筆名を「隅江三郎」とする。
昭和14(1939)年、岩手医専卒業。岩手病院整形外科教室(岩手医専附属病院)勤務。青森第五聯隊入隊、軍医として山形の部隊に配属され、満ソ国境の綏陽駐屯部隊へ派遣。同年12月、盛岡の友人三浦博の編集により『詩抄』刊行(限定100部)。
昭和18(1943)年、結婚のため一時帰郷。妻をともなって綏陽へ戻る。その後フィリピンへ派遣。
昭和20(1945)年6月30日、ルソン島の戦いへ派遣されるが、上陸前に輸送船が撃沈され戦死。派遣前、マラリヤ罹患により残留をすすめられたが、責任感の強い彼はそれを断ったといわれる。

【参考文献】

  • 青森県詩集 下巻』船水清ほか編、北方新社、昭和50年
  • 坂口昌明『みちのくの詩学』未知谷、2007年


「象限」第1巻 水戸敬之助編、象限発行所、昭和8年8月15日/第2巻、昭和9年11月20日


  畫

何處からでもいゝ
バア!

子供が顔出すといゝ

(第1号所収)

  室内

飾棚の上に玩具(オモチヤ)の象が載つてゐた
象は光るナイフをふんまへてゐた

枕の白さに氾濫した黒髮で
狂おしく兩手を洗ふ女

飾棚の上の玩具の象はフランネル
恐ろしい重さでナイフをふんまへてゐた

(第2号所収)

「象限」については昨年、水戸敬之助の詩集『氷河』と共に紹介した。
第1号に『氷河』出版記念会の写真が掲載されている。

佐藤春夫・井上康文・金子光晴・大鹿卓・森三千代・伊波南哲・野澤冬歌・臼井元嗣・大坂連次郎・縄田林蔵が発起人だったようで、40余人が集ったと水戸は第1号の後記「ふらぐめんたる」に記している。
写真中央が水戸敬之助。向って左隣は森三千代。水戸が抱いているのは森乾だろう。水戸は乾がまだ乳呑み児のころ金子宅に転がり込んで半年ほど居候したのだった。


野澤冬歌『冷下地層』詩之家出版部、昭和7年


装幀:恩地孝四郎
水戸敬之助の『氷河』出版記念会にも顔を出していた野澤冬歌の第一詩集。

  愉悦の一角

塵はどこの家でも裏隅へばかり捨てられた
市の空地と云ふ空地には
日毎うず高く黑い小山が築かれてゆく
臭いのは
やつらの怒りたぎつた聲だらう

ごとごと街から海岸の埋立地
微かな肌と肌を吸ひ合せながら
何か強く物言ひたげに運ばれて行くそれら
それら一つ一つの悲憤のかたまりが
廣い海の一角に
やがてごつちり重い陸地を突き出すだらう

泣くよりも醜く唸るのだ
どんなに隅へ隅へと除き去られても
塵は
地球の眞ん中に在る

  道

地盤が低い。道は狹くて泥だ。圓タクが通らぬので
誰も彼も殘らず歩いて行くのだ
朝、狹い露路の奧から
二人三人と出て來た連中で
電車通り近くには長い行列が出來あがる
所がこゝまでは誰も默り込んで
同じ樣に急ぎ足で肩を竝べて來るが
急に廣い騒々しい電車道
どつと押し出されたら最後
蜂の巣でも突いた樣に
ツイと圓タクへ乘る人と
電車の吊皮へぶら下る組と
まだ歩き續けて行く連中と
ぴつたり區別されるのだ

府下から市内へ 長い電車道の兩側に續く
低い澤山の町々から
こうして一個一個ふるい拔かれた仲間が
車輪の廻る樣に朝のかさなる毎に
熱くなる
太くなる
默つて長い行列になる!

発行所は詩之家だが、印刷は黎明社の柴伊穂利で、発売所も黎明社。野澤ははじめ詩之家で詩を書きはじめたが、のちに黎明社の「黎明調」「詩壇」にも属した。そのため佐藤惣之助が序文を、黎明社人脈の縄田林蔵と伊波南哲(詩之家でも親交があった)が跋文を寄せている。
野澤冬歌が水戸敬之助の『氷河』出版記念会に参加したのは、両書とも柴伊穂利が印刷し、黎明社が同時期に販売を手がけた縁からだろう。水戸は黎明社の「黎明調」や「詩壇」に作品を出していたわけではなく、「詩誌には餘り發表されず畫を書き乍ら精進」(「詩壇」第2巻第1号(黎明社、昭和8年1月)「詩壇消息」欄より)していたそうなので、詩人同士の親交はなかったのではないだろうか。


黎明社(のち黎明調社)という名の版元は同時代に複数あるが、こちらは歌人の望月一清が資本を出して両国に設立した印刷・出版所。詩人の吉川政雄や縄田林蔵、歌人の柴伊穂利らがここで働いた。
野澤冬歌は明治43(1910)年、長野県上伊奈郡高遠町(現・伊那市高遠町)生まれ。家業は左官屋だった。詩に憧れ上京、東洋大学中退。第一詩集上梓後、煙突屋や金物屋などを生業とする。昭和18(1943)年、第2詩集『熱風』発表(愛国詩が多い)。以降森山一名義。戦後は金物問屋で成功するが、昭和42(1967)年倒産。以後商売は長男に譲り詩作に熱中。昭和49(1974)年進行性筋ジストロフィー身体障害者を守る会「長い道の会」結成、以後その運動に献身する。昭和53(1978)年『宮澤賢治の詩と宗教』発表。昭和55(1980)年死去。

【参考文献】

  • 小野寺逸也「詩人縄田林蔵の半生」(『歴史と神戸』(第32巻第4号、神戸史学会、1993年8月)所収) ※黎明社について言及あり
  • 「黎明調」第15号(森山一追悼号)黎明調詩の会、1981年


長崎浩『裏街』(復元版)地下水出版部、昭和49年

原本は昭和7年、犀発行所よりガリ版で100部刊行。

  年寄り

年寄りは はぢめ
茄子に胡瓜はいいかッすと
その下宿屋の勝手口に入つてきて
ほうか いらねのかッす と出て行つた
すぐノソノソとひき返してきた時こんどは
女ッ子はいいかッす
みんなきよとんとしてしまつた
その年寄りは縁側にどつかり腰をかけ
孫娘を女中においてくれといつた
百姓はあがつたりだと大きな息をついた
みんな やつとわかつて笑つた
女中はいらないよといはれて
年寄りは重い腰を上げ
ほうか いらねのかッす といつて
またノソノソと通りへ出ていつた
強い外光の中によぼよぼしたその後姿は笑へなかつた。

  裏街の詩

淡雪は豆腐屋のラツパの上で消える。
街では大変なことがもちあがつてゐた。
萬引きだ。
赤ん坊背負つた女乞食だ。
さあ出せッと雜貨屋がこづいた。
女の顔がひん曲つた。
背中の子は泣きたてる。
つぎはぎの襟を誰かぐいッとひつぱつた時
ふところからポロリと落ちた。
それは赤い毛糸の子供帽子だ。
みんなハッと見る、
瞬間女乞食はポンとその帽子を足蹴にし、
おう おう おうと
泣く子をゆすりながら歩き出した。
雪が背中の子の小さな頭の生毛で濡れ光つてた。

長崎浩は明治41(1908)年、新潟県新津生まれ。村松に育つ。
昭和3(1928)年より山形県立図書館で司書をしていた。はじめ「山形詩人」「北方」等に抒情詩を書いていたが、東北農村の窮乏を目の当たりにし、また真壁仁と出会い、作風がリアリズムへ旋回。昭和3~9年、「朔北」「犀」などを主宰。昭和11~20年台湾で「台湾文芸」の編集にあたる。台湾文芸協会理事。昭和21年引揚げ、帰郷。
詩集『裏街』の原本刊行に際しては、「犀」で一緒だった詩友・真壁仁が刻字・印刷・製本等の一切を引き受けた。跋文も寄せている。この復元版も、真壁の手元に残されていた一冊をもとに、真壁の手によって発行された。
以上、長崎浩「あとがき」・真壁仁「復元版について」・本書奥付の略歴より抜粋編集。

松永伍一が『土魂のうた』(新潮社、昭和45年)で「年寄り」を引いてこう書いている。

長崎浩の詩は淡いかなしみを漂わしたところに作者の感傷も見えるが、売られていく娘たちの心情は、天保年間に越後の村々でうたわれた「瞽女くどき」によって見事に代弁されている。


杉山平一『夜学生』第一藝文社、昭和18年


  硝子

 何が 私を追ひつめるのだらう 自分の仕業をにくみ 恥ぢ 責め すべてのものから謙遜し 逃避し 自分をかき消してしまひたい 自殺のいざなひでもなく 深い山に隱棲する孤高でもない 黑衣の人が夜の闇の中へ溶けこんで行くやうに この白日の中へ溶けこんでしまひたい それは 小さな水溜りを殘して消えて行く氷のあの感傷でもない しづかに拭ふうちに見えなくなつてしまふあの質のいゝ硝子のやうに消えたい 粗忽な人はうつかり手をさしのべて コツンと固く 少しばかり冷たく はじめてその存在に氣付くだらう あゝ 何かゞ私を追ひつめる 私は拭く 微塵に碎ける誘ひに耐へて私は磨く しかもなほその底から曇つてくるこの霧のごとき憂欝は何か

時局を意識した詩もあり、時局柄捨てられた詩もある(あとがきより)が、昭和18年という年に高い純度の抒情が保てたこの詩集は戦時下文学の珠玉であろう。


『白崎禮三詩集』青山光二富士正晴編、発行人・富士正晴、昭和47年


題字:富士正晴

  髑髏

身も弛(たゆ)み 吐息に深く 噎ぶとき
つと あらはれる 不氣味な髑髏
心の底の 隅(すみ)隅までも
見透すやうな その眼(まなこ) 冷(ひややか)な

虚(うつろ)なその眼(め)は 虚空に放たれ
重く苦しい 沈黙(しじま)をついて
飛び 木霊する 清い征箭(そや)
矢は適確に 的を貫き

それは髑髏の 投げる侮蔑か
聊の 情(なさけ)もまぢへぬ 燦たる征箭に
堪え得ず 潰(つひ)え 喘ぐもの

否否血塗れ 髑髏よつねに わが 胸を
ともすれば そなたを抱いておろねぶる
この 愚しい 腕を逃(のが)れて

  屍

魘されながら ねむつてゐた
魔女の 冷い むくろを抱き
爛れた肉の 匂ひに痺れ
かつての姿を 空しく夢みて

清め捧げる 血に浴みして 心の儘に
空の深みに 翔り去る
眸に忘我の 蔭と湛へた
天女に見紛ふ 姿を夢みて

淫らな望みに縛られて
女は 妖しい 魔性を失ひ
なほも 執拗く 渇きに喘ぎ

心を鎔す ああ この麻酔
濃血を啜り 死ね 妻よ
命の 定かな 目覺めの爲に

三高の校友会誌「嶽水会雑誌」、第三次「椎の木」、同人誌「海風」から53篇。
白崎禮三は大正3(1914)年、福井県敦賀郡敦賀町(現・敦賀市)生まれ。家業は薬局。
昭和6(1931)年、三高の文科甲類に入学。同級に織田作之助・瀬川健一郎、一級上に森本薫・田宮虎彦青山光二らがいた。フランス象徴詩に没入し、中学時代級長をつとめた優等生は無頼の文学青年に変貌する。
昭和7年、第三次「椎の木」に詩を書きはじめる。同級の織田作之助と同じ下宿で起居を共にする。昼夜文学を談じ、街を彷徨する生活が続く。
昭和8年、「嶽水会雑誌」に詩を発表しはじめる。一年休学していた青山光二と同級になり、織田作之助と三人の交友が始まる。胸部疾患により同年末から翌年9月まで休学。
昭和10年、青山・瀬川・柴野方彦・深谷宏らと同人誌「海風」創刊。6年続く。
昭和11年、織田と共に留年をくり返した三高を退学。上京して青山と共同生活。ふたりで夜の街を歩き、深更アパートに帰って朝まで書を読み詩を推敲する日々。
昭和13年夏、健康状態かんばしからず、敦賀の実家に帰る。昭和15年春から約1年、信濃追分の「油屋」で転地療養。
昭和16年上京、叔父の紹介で、「読物と講談社」に入社。
昭和18年夏、胸部疾患が悪化し帰郷療養。昭和19年1月20日死去。

以上、青山光二による略年譜より抜粋編集。
織田・青山とのデカダンな関係は、青山の実名小説『青春の賭け 小説織田作之助』に詳しい。

富士正晴とは、三高時代に文芸部の会で顔を合わせた以上の付き合いはなかった。富士は野間宏・桑原(のち竹之内)静雄と同人誌「三人」を出していた。昭和17年に東京で再会して3、4回ほかの友人を交えて飲んだ。そのとき富士は白崎のアパートで詩稿を見せられ、批評を頼まれた。富士はある日、そのことをふと思い出す。そして、白崎の詩集が出ていないことにも気づいた。

 織田作之助が生きのびていたら、白崎と大の仲良しだったから、きっと何とかまとめて出版していただろう。今のわたしにはそのような力もないが、ほっておけば白崎の詩も散逸してしまうかも知れない。せめて、三、四夜の交友の記念のためにも、せめてタイプ印刷ででも、彼の詩集を作っておきたいと思った。
 織田作のほかに、青山光二も彼の仲良しであったから、青山に連絡すれば手許に原稿や切り抜きがあるかも知れぬと思い、連絡すると、あるだけのものを送ってくれた。又、三高の校友会雑誌「嶽水会雑誌」にものっている筈だからと思い、京大教養部の助教授の山田稔に労を患わせてこれもコピイを手に入れることが出来た。

「あとがき」より

山田稔さんの『富士さんとわたし』や「富士正晴という生き方」(『天野さんの傘』所収)にも言及あり。


飯沼文『テスカポリトカ』詩学社、1972年


装幀・カット:辻一

むかし
おまえのミイラを神としている人たちがあったが
おまえを兄弟のように抱きあげ
砂漠のあるところまで連れてゆくのは……
食事のあとの白白しい皿のもので
おまえを手なづけることを思ったが
うっとうしくて
風よけの帽子にもならない おまえ

「猫」より

夫は京大の農業経済学者で「日本小説を読む会」の熱心な会員でもあった飯沼二郎。
山田稔「一徹の人──飯沼二郎さんのこと」(『マビヨン通りの店』所収)で、「猫ぎらい」で「詩を書き絵もよくする夫人」として登場する。


『滋賀詩集』近江詩人会、昭和32年


カット:高橋輝雄
近江詩人会の月例詩話会「詩人学校」80回を記念して企画されたアンソロジー。近江詩人会メンバーほか野田理一ら41人の詩をひとり1ページずつ掲載。


松木千鶴詩集』松木千鶴詩集刊行会、ぱる出版、1998年


装画・版画:竹久野生

  ちくび

夕か暁のやうなひかりが胸間に漾(ただよ)ふやうになった。
角笛が聞こえたり
言葉のない喜びが叫び声を挙げて居たり、
愛といふ愛が完成され、
二つの乳房は噴泉の甘い放射を待ちかまへ。
けれど
をみなのちくびは
たべてしまひたいやうな
桜の実のあかさが消えてしまつた。
叡智のごときものであらうと
そこにはもうまあるい虹が
懸らなかった。

  檻

到るところに檻がある
女が入った檻がある
女の中に檻がある
私の入った檻がある

拳を振り
体を投げ
気狂いのような私がいる
歪んだ檻に私がいる

  氷

あなたは遂に氷となるでせう
見えるやうで見えない
厚い氷と
見えないやうで見える
透明な氷となるでせう
触れるものすべてを
あなたは結晶させ
氷の透明となる
蒼い雪渓の沈黙に
あなたはなる
あゝ
それを覗いたものは
その眼を灼く 皮膚を灼く
ふたゝび消ゆる事のない跡をしるす

松木千鶴は大正9(1920)年、長野県長野市生まれ。間もなく父母とともに東京市向島区墨田町に移り住んだ。府立第七高等女学校に学ぶ。
昭和12(1937)年頃から詩作をはじめ、「日本學藝新聞」、詩誌「歴程」などに作品を発表した。昭和14年アナキスト遠藤斌と結婚。宋世何や辻潤など多くの知友に恵まれた。
戦後アテネ・フランセに学ぶかたわら、日本アナキスト連盟の機関紙「平民新聞」の刊行に編集長遠藤を助け、同紙上に多くの作品を発表した。昭和22年6月から病床に臥し、昭和24年2月2日死去。
以上、略年譜より抜粋編集。


喜谷繁暉『北条』私家版、1969年


須恵器片・紅絹・大福帳の切れ端・縞帳の切れ端・著者の油彩キャンバスの切れ端・著者が着ていたシャツの切れ端・黄色の硫酸紙にそれぞれ詩篇が貼られ、自刻自摺の千代紙を貼った小箱に収められている。
300ほど作られ、材料揃えが大変だったという。(『喜谷繁暉詩集』解題より)

  霊屋

故郷の小川には私の血が流れている
蜆などを底に沈めて
不意に蛇が動き出すと
川は一米ばかりも身をくねらせてそのまゝ動かなくなってしまう
川底には新仏の霊屋の骨が白く突きささっている

喜谷繁暉(1928-2009)具体美術協会の作家だった。
詩業は『喜谷繁暉詩集』(編集工房ノア、2004年)にまとめられている。



新刊の約10冊

図書新聞(3614号・2023年11月11日号)に、『父、高祖保の声を探して』の書評を寄せた。同紙は電子版PDF版でも購入できる。

外村彰『多喜さん漫筆』龜鳴屋、2023年


著者の井上多喜三郎に関する文章を集成。

『忘れたステッキ 武田豊詩選集』澤村潤一郎編、龜鳴屋、2023年


編集と解説を担当。
琵琶湖畔の町・長浜で古本屋ラリルレロ書店を営みながら詩をつくり、「おっちゃん」と呼ばれ愛された武田豊(1909-1988)。眼と耳が不自由だった。
そのひたむきな詩のあゆみを、ラ・リ・ル・レ・ロの5章で辿る。
龜鳴屋本第38冊、置去り詩人文庫5

『いのちの芽』(復刻版)大江満雄編、国立ハンセン病資料館、2023年


初版は1953年三一書房刊。国立ハンセン病資料館の企画展「ハンセン病文学の
新生面 『いのちの芽』の詩人たち」(2023年2月4日~5月7日)に合わせて復刻された。

『趙根在 地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人ハンセン病』原爆の図丸木美術館、2023年


同名写真展の図録。趙根在の自伝的回想「ハンセン病の同胞(きょうだい)たち」も収録。

架空線

架空線

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2022年の約10冊

古書の10冊

水戸敬之助『氷河』黎明社、昭和8年

  響

枕に耳をあてゝ
暗い胸の響を聽く
北斗七星が冴えてゐる

  妙な氣持

讀みさしの本を
そつと胸にのせ
指を組んで死んだ眞似する

  雜音

私といふ全部から
凡ゆる雜音が消失して
頭がはつきり澄むことがある
それは孤獨の氷結
集團からの追放で
刹那! 思はず合掌する
祈るためではない
消失した雜音を
一番遠い幼い日の記憶から
順々に喚びかへすためだ

  貧しい友の部屋

お茶菓子さへ無かつたが
机の小さな鏡に
マリヤの白い手が映つてゐた

書肆田髙さんの目録より。(今年から紙の目録をはじめられたようだ。カラーの書影入りでよい)
著者については全く知らなかったが、洋画家という目録の説明と、その簡素な装幀に何となく惹かれて注文したのだった。

佐藤春夫と森三千代が序文を寄せている。発行人は縄田林蔵(農業詩人になる前の)。
自序に金子光晴への謝辞がある。曰く、「あらゆる點で私の最も不安定時代大變お世話になつた金子光晴氏に感謝致します。詩集を出すときは何か書くといふ古い約束でしたが、御多忙のため間に合はなかつたのは殘念です。」
水戸はこの詩集を出したあと、同年8月に「象限」という詩誌をはじめる。翌昭和9年11月発行の第2号まで確認できる。1号・2号ともに、執筆同人として水戸と金子光晴二人の名が記されている。印刷者は縄田林蔵。

「象限」第1号は、詩(野口米次郎「碑銘」・水戸「詩集」・金子「詩章」)、『氷河』の合評(伊福部隆輝・角田竹夫・吉川則比古・深尾須磨子・正岡容・金子が寄稿)、金子の散文詩「龍」、水戸の短篇「幽霊」という構成。金子はここで「何か書くといふ古い約束」を果たす。第2号は水戸の詩のみ18篇掲載。
第1号に掲載された金子の「詩章」は2章からなる「南方詩集」系の詩だが全集未収録。そこで使われているいくつかの詩語が「雨三題」(『女たちへのエレジー』所収)・「無題」(昭森社版『金子光晴全集』第4巻所収)に見える。後年解体されてこれら他の詩に吸収されたか。散文詩「龍」は、未刊詩集『老薔薇園』収録の同名詩と異同あり。初出形だろうか。

金子光晴の例えば全集の年譜などに水戸敬之助や「象限」の名は出てこない。二人はいつどこで出会ったのか。
森三千代の『氷河』序文は1932年(昭和7年)11月4日付で、「私がヨーロツパに旅立つ以前からの知りあひで、既に六年餘のながいつきあひである。」とある。「象限」第1号の『氷河』評「氷河に就いて」で金子は、「佐藤春夫氏の家であつて以来」「水戸君の詩を透して僕は、北國といふものを考える」と書いていた。これらを念頭に、金子の自伝類を読み返す。──と、『どくろ杯』にそれらしき人物を見つけた。

夜も、昼もけじめのないそんな私たちの生活のなかに、邪魔がとびこんできた。佐藤春夫を訪ねて話していると、傍らにみしらぬ青年が坐っていたが、私が辞して表に出ると、その青年が追いすがるように話しかけた。ゆくところがないから一晩泊めてくれという。笹塚にかえって心待ちしていたが、訪ねてこないので、私が一応そのとき拒(ことわ)ったので、他のあてがあったのかと思っていると、十一時すぎになって訪ねてきた。秋田県横手の人で、小娘に惚れられそうなのっぺりとした痩浪人といった風態のM君という青年で、子供の遊び場だった三畳に泊めると、そのまま居ついて、一晩が半歳になった。食事に出てくるだけで三畳にこもりきったその男は、いつ出てゆくともわからず、尻をおちつけてしまった。

中公文庫(改版)p.89/全集第7巻 pp.49-50

この「M君」が水戸敬之助であろう。上海へ旅立つ前に引導を渡したと同書にあるので、つまり1926年(大正15年)の秋から1927年(昭和2年)3月ごろまで笹塚の金子宅に居候していたことになる。幼子のいる貧乏所帯にはさぞかし「邪魔」だったろう。
※補記:原満三寿『評伝金子光晴』(北溟社、2001年)でも「あつかましい浪人者」と言及されているが、「水戸啓之助」と名前に誤字がある。(p.162)
だがその後の金子夫妻の長い東南アジア・ヨーロッパ放浪を経てもなお交友が途絶えることはなかった。「象限」第1号の正岡容の『氷河』評によると、同詩集が出てまもなく、金子は正岡と連れ立って水戸を訪ねている。

『氷河』「象限」よりのちの詩業は詳らかでない。
太平洋画会・示現会の画家としての略歴がこちらにある。(『氷河』について記載あるも刊行年が間違っている)
戦中は中和国民学校(現・墨田区立中和小学校)で美術教師をしていた。疎開時のエピソードがこちらで読める。
絶筆となった画「庭」をこちらで見ることができる。

奇しくも、水戸敬之助と金子光晴は同年同月に亡くなった。(水戸は1975年6月7日、金子は6月30日没)


丹羽哲夫『緑の假睡』詩文學研究會、昭和14年

  午後の傾斜

見知らぬ微風のほとり
砂丘の午後の傾斜に
鳥の趾跡も既になく
雲は明日のやうに低い

僕のノオトは斜線に始まる
抛物線の兩端では
インクに滲みた話し聲
僕の聲はとどかない

むしろ砂岳の麓に
一箇の哲學的な花を植ゑ
流れない川に
石と共に流れやう

  眼覺め

わたしはわたしの靑春(はる)を思ふ
それは陽光(ひ)に透かされた私の指である
わたしはわたしの指に沿つて歩く
あなたの影がわたしの進路(みち)に透映(うつ)つて………

小鳥の唄がわたしの影を覆つて
潮騒にも似た夢がわたしの心に滿ちる

わたしは眼覺めなければならない
わたしの指はわたしの風景の周圍に運動する
それはわたしを覺ますためにわたしを眠らせる

故丹羽哲夫略歴

 本名博。大正五年二月十六日愛知縣彌富町に生る。明倫中學、名古屋藥學専門學校を經て現在東京帝大藥學部専科生として研究中昭和十七年十二月二十八日逝去。
 詩歴としては昭和十一年詩誌「偶像」を友人木下夕爾、最上八平等と發刊せしことあり。昭和十二年春、詩文學研究會創立されるや直ちに會員として參加、「詩文學研究」に幾多の詩作品と評論を發表して現在に到る。著書として詩集「綠の假睡」(昭和十四年十月刊)一巻あり。

「詩文學研究」第15輯(昭和18年9月)p.89

石神井書林さんの目録より。
梶浦正之の「詩文學研究」に創刊から加わる。同じくこの詩誌に拠った木下夕爾は名古屋薬専の同窓。『緑の假睡』と木下の『田舎の食卓』は、詩文學研究會からほぼ同時に上梓されている。ともに梶浦正之が序文を寄せた。
丹羽の没後、「詩文學研究」第15輯で追悼特集が組まれた。最上八平・小林正純・梶浦正之が追憶を綴っている。木下夕爾は、詩「田舎の食卓」一篇のみを寄せた。

  田舎の食卓
  ──生前の丹羽哲夫に──
          木下夕爾
乾草いろの歳月が燃される
僕のまわりで
あの蜜蜂の翅(はね)の音が
僕を煑る
悲哀の壺で
あゝ とろ火で

「生前の丹羽哲夫に」の部分は、詩集『田舎の食卓』(詩文學研究會、昭和14年)では「TO my T. Niwa」となっていた。丹羽との友情を記念する作。


矢野文夫『鴉片の夜』香蘭社昭和3年

  酒場
    ──好んで酒場と工場を描く長谷川利行氏に──

バツカスよ
お前は馬鹿だ

醉へば
お前の山羊鬚なんぞ忘れてしまふ

バツカスよ
空のビール樽かゝへて
早く昇天しろ

  暗らい雨

暗らい雨がやつて來た

私は納骨堂のやうに
私の魂を陰鬱にとざしてしまはう
そして黑い光で物を考へやう
一日光の落ちて來ない窓から
高くかぎられた大空の一片をのぞくやうに

暗らい雨がやつて來た

巷々を納骨堂のやうに
黑くとぢこめよ
巷の浮氣な幽靈共を
屍衣で蔽へ

第一詩集。序文・三木露風、装幀・恩地孝四郎、挿画・長谷川利行(「農園」・「煙突のある風景」)


井上多喜三郎『花粉』靑園莊私家版、昭和16年


限定30部のうちA版(1~6番)の5番本。肉筆装画・阿久津昌太郎。
2022年は多喜さん生誕120年だった。(1902年(明治35年)3月23日生まれ)

  花粉

僕の癖のままに
歪んでゐる自轉車でした

くるつた僕の自轉車に
平氣で乘るひとよ
鶏や犢が遊んでゐる
狭い村道
走りながら
カネエシヨンのやうに手をあげるひとよ

  言葉

帽子の中に言葉はなかつた
帽子もすでに儀禮を越えた
僕等のまわりにもえてゐるお天氣
僕等は氣球よりも輕い
飛翔する
不誠實な言葉の領域から


高森文夫『浚渫船』由利耶書店、昭和12年


題字と序文・日夏耿之介

  冬

マツチをすつたら
牛の匂がして
薄陽のあたつた
枯草の丘に
わたしは寢そべり
山肌と空との切線にむかふ
切ない旅愁に睡り入つた

風の吹く日
野原のなかの
つゝましい小徑をふみ
杉林を通りぬけて
年老つた樵夫(きこり)がみつけたものは
枯木にぶらさがつて
風にゆられてゐる
白骨だつた

  劫

始もなく終りもないやうな晩でした
悲痛なほど 物懶い
僧院からの讀經のやうに
地引網を曳く男女の聲がして
空のいづくにも星影とてなく
思出の 暗く 哀しい晩でした

渚にそつて 際限もなく
わたしはさまよつてゐたのですが
波の穂頭は よせてはかへし
水泡(みなわ)の白齒が氣狂の笑ひのやうで
さくさくと砂を踏んで私は歩いてゐたのですが
それがまるで他人(ひと)の足音のやうに思はれましてね

どこか とても遠くの岬から
燈臺の三閃光が ときをり
忘れられたやうに暗い海面を照らして
たれもその恐しい孤獨にさへ氣づかなかつたのです

思出のなかのやうに
地引網を曳く 男女の聲が
いつまでも耳に纏はりついて
まるで地の底からの呻きのやうでしたがね

單調で 狂ほしい
暗いどこかの濱邊のことで
子供の泣聲さへもしてゐました……


小川富五郎『近世頌歌』書物展望社昭和15年

  靜物

コスモスの
針のごときなる
繁殖を見たり
また色硝子のやうなる
華麗を見たり
圓舞(ロンド)は蝶よりもトンボに秀抜
ミミズ
靑大將
トカゲのごとき
みな地軸をば圓周して
レモンのやうなる
ベヱゼを
せり

  サボテン立體

影を鮮やかに巻いて
その立體は稀有である
亞熱帶の月夜に笑聲がする
やがて寄添ふ二個のかげが浮び
それらは立體の影の眞上に來ると
──間隙のない直線となる
言語よ
この熱風のやうなヱモーシヨンにマイナスされる
音樂よ
この强烈な無韻の律動に音(ね)をうしなふ
砂にパツシヨンの電子は撒かれて
その立體の影の眞上へ
直線は大きくそのままに折れる

第一詩集。序文・岩佐東一郎。従兄に千家元麿。千家の「詩篇」同人、のち「新領土」同人。「文藝汎論」に寄稿。
戦後、昭和21年6月児童誌「こども雑誌」創刊。誌名を「子供雑誌」「金と銀」と変え、昭和23年3月まで続けた。昭和26年より「歴程」同人。
「青山鶏一」名義で第二詩集『白の僻地』(書肆ユリイカ、昭和29年)、第三詩集『悲歌』(詩と文学社、昭和41年)。昭和50年筆名を小川富五郎に戻す。選詩集『小川富五郎詩集』(風書房、昭和54年)。昭和61年9月18日死去、81歳。第一詩集のころより眼疾を患い、目が不自由だった。
以上、「歴程」の追悼号(341号、昭和62年3月)に拠る。


丸山豊『孔雀の寺』金文堂出版部、昭和22年


敗戦後タイのキャンプで医書にローマ字でしたため持ち帰った戦旅回想の四行詩28篇と戦中の作5篇。
「私にとつては永久に捨去ることのできぬ素描帖」(「巻末の言葉」より)

  疼痛
      ボルネオ

潮が干いた原始の渚
私の孤獨な足跡で
朱い小魚が泳いでゐる
朝の傷口が泳いでゐる

  孔雀
      ビルマ

羽根にちりばめた千の眼で
いつもおのれを見きはめてゐる
いたましいかな 野の孔雀
美しいかな その虛勢


森竹夫『保護職工』風媒社、1964年

  保護職工

働いてゐるこの機械は家庭用シンガーミシン臺ではない
  旧式な製本の安機械
彼女は磨き齒車に油を注(さ)す
埃をうかべた日光が漸くさぐりあてるくらがりで
だまりやさん
だまりやさん
だけどわたしはお前がぢつと何をこらへてゐるのか知つてるの

十六歳未満だから保護職工
何てかがやかしい名だ美しい名だ
殘業はたつぷり四時間
活動小屋のはねる頃になつて
半分眠つたこの保護職工は繩のやうなからだで
  露地から電車にたどりつく

ガスのたまつた神田の工場街では雀もあそばない
十一月に入つて冷たい雨がふり出した
通りがかりに見ると彼女は今日も見えぬ
ぢつと光をこらした機械の上におどろくべき鮮明さで
  保護職工の指紋がついてゐた

〈昭和四年十二月・一九二九年版「學校詩集」所収〉

北満から乞食同然の様で避難してきた多くの日本人救済のために、発疹チフスの巣くつである難民居住区のただ中に赴き、感染、高熱のため意識不明のまま死んだ。虚弱な父を危険を伴う仕事に駆りたてたものは、若き日、貧民窟の人々・保護職工・辻君、それら不幸に苦しむ者たちに寄せたあの「愛」ではなかったろうか。買ってきた古本を酒精で消毒しなければ気のすまなかった父が、虱の猖けつする難民地区を駆けまわらずにいられなかったのは、不幸を黙視できぬ父のヒューマニズムであったように思えてならない。

富田窿「父・森竹夫の想い出」より(同書 p.48)

三男・三樹もまた詩人となった(三木卓)。


立花種久『水の夢、その他の夢』海溝出版会、1981年

 あるふと翳った真昼、その影のなかに見つけたアクアリウムで、緑色の水は永遠に鎮まっている。そこに睡る時間。魚影もなく、藻のゆらぎもない、太古からの時間。その時間が夢の逆児を産み落とす。

「水の夢」より


黒部節子まぼろし戸』花神社、1986年


注文後、郵便局の配達記録だけが完了になって数日がすぎる。なかば諦めていたところへ、不意に届けられてきたのだった。
黒部節子の詩集だから、そんなこともあるかと思った。

紗の世界はいつも多少霞んでいて
物事は遅々と ずれていて

まぼろし戸」より


新刊の約10冊

詩と思想』7月号が高祖保を特集。商業誌で特集が組まれるのは初めてではなかろうか。私は高祖の彦根時代というテーマをいただき、小文「湖べりの去年の雪──高祖保と彦根の詩景」を寄せた。

2021年の約10冊

古書の10冊

加藤健『詩集』竹村書房、昭和13年

やわらかに、雪へ、死顔(デスマスク)、 ──自らをいとほしんでゆくのだ。

第六詩集。装幀・挿画は藤田嗣治。詩集も詩もすべて無題。
4年前に石神井書林古書目録で第一詩集に出会って以来、この盛岡の詩人に惹かれてきた。今年全12詩集が揃ったのだった。最後の一冊も石神井書林古書目録より。

本書を含め、詩集5冊の装幀・挿画を藤田嗣治が手がけている。藤田に師事した澤田哲郎の妻は、加藤健の妹・園子(兄と同じく医師)。村上善男『色彩の磁場』によると、盛岡から上京した澤田は加藤健の紹介状をもって藤田のアトリエを訪ねたという。では、加藤と藤田が知り合ったのはいつだったのか。

美術家の村上善男(詩人としては橡木弘)の生家は、盛岡の詩人の生家・加藤医院のはす向かいだった。村上には加藤の記憶があり、詩「鰯」に「銀縁眼鏡の白皙の」若先生の姿を記している。加藤詩の原風景をよく知る村上は、藤田嗣治の装幀を次のように評している。

藤田装、その成果を評価する向きもあるが、私見では、藤田の楽天性と技術至上主義は病床幻想ともいうべき加藤の透明なデリカシーと、とうてい交差し得ないように思われる。

村上善男『盛岡風景誌』用美社、1986年、p.51

「病床幻想」と断じるのはどうかと思うが、藤田の装画・挿画が加藤の詩と必ずしもマッチしていないのは、その通りと思う。

先年、大川美術館で再現された松本竣介のアトリエの本棚に、加藤健の第八詩集『記録』があった。図録によると、加藤の献呈署名入りである。二人にどのような交友があったのか。盛岡の二人の家は、中津川をはさんで近かった。ともに盛岡中学の出身だが、入れ違いに卒業入学しているので学校での面識はない。直接知り合ったのは上京後、松本竣介と親しかった義弟の澤田哲郎を介してではなかろうか。

加藤健はこれまで立原道造との関わり(「盛岡ノート」の旅)において語られることはあったが、藤田嗣治、澤田哲郎、松本竣介、村上善男(橡木弘)らとのつながりも興味ふかい。
ともあれ、加藤健の盛岡を歩きたいと願っているが、疫禍によりのびのびになっている。

加藤健の詩集は12冊のうち6冊が『詩集』とだけ題されていて、同年に2冊出ていたりもするので、もとめる際は書誌に要注意。

【詩集一覧】

  1. 『詩集』詩洋社、昭和6年5月20日(装幀:前田富子)
  2. 『詩集』竹村書房、昭和11年10月25日(装幀:五十澤二郎)
  3. 『詩抄』竹村書房、昭和12年4月30日(装幀:藤田嗣治
  4. 『詩集』竹村書房、昭和12年11月10日(装幀・挿画:藤田嗣治
  5. 『詩集』竹村書房、昭和13年3月25日(装幀・挿画:藤田嗣治
  6. 『詩集』竹村書房、昭和13年9月10日(装幀・挿画:藤田嗣治
  7. 『詩集』詩洋社、昭和14年8月29日(松田幸夫との共著。装幀:深澤紅子)
  8. 『記録』創元社昭和16年8月5日(装幀・挿画:藤田嗣治
  9. 『馬・鯨・鮎』詩洋社、昭和19年3月20日(非売品)
  10. 『りんごの枝に』自家版(臼井書房)、刊行年月日の記載なし(昭和19年
  11. 『鳩笛』加藤健遺稿詩集刊行会、昭和20年11月8日
  12. 『雪』臼井書房、昭和21年1月5日



上記詩集を原本の複写でまとめた全詩集がある。重複する詩は初出のみ掲載。藤田嗣治の挿画は省かれているが、巻末に表紙の写真や書誌などがまとめられている。

  • 加藤健全詩集』川口印刷工業株式会社、1994年

加藤健とその周辺に関する参考文献】

  • 田中規久雄『詩洋五十年史』アポロン社、1973年(上巻)・1978年(中巻1)・1981年(中巻2)・1983年(中巻3)
  • 佐藤実『立原道造 豊穣の美との際会』教育出版センター、1973年(pp.156-163「加藤健の詩」)
  • 佐藤実『立原道造ノート』教育出版センター、1979年(pp.138-219「加藤健の詩と生涯」、初出は「四季派研究」4号・6号)
  • 深沢紅子『追憶の詩人たち』教育出版センター、1979年
  • 村上善男『印壓と風速計駒込書房、1979年(pp.88-100「硝子の羅針儀・加藤健第二詩集考」)
  • 村上善男『盛岡風景誌』用美社、1986年(pp.49-62「母衣の箱─加藤健ノート」)
  • 村上善男『松本竣介とその友人たち』新潮社、1987年
  • 村上善男『色彩の磁場』NOVA出版、1988年
  • 佐藤実『深沢紅子と立原道造』杜陵高速印刷出版部、2005年
  • 図録『松本竣介 読書の時間』大川美術館、2019年(松本竣介の本棚写真と蔵書目録収録)


『河田誠一詩集』昭森社昭和15年

  春

タンサンの泡だつだらう海峡の空は
つめたく暮れた。
なまあたたかいかぜの記憶は
かすんだ雨のなく音。

ボロボロの鳥。
わたしの抱いてねたあなたの肉體は春であつた。

  悲慘の港

朝、水煙をのこして去る。船の纜をあげて、地獄の鬼をのせ、ヒマラヤの白雪を積み、悲慘の港を出づ。
こは、傷つきし者のみ。鬭ひの火焔に髪燒けし者のみ。
われの歡ばしむるところ。われのかなしむところ。
みなとほく洋上にありて、雨にぬれしパン、腐れし牛乳は、水路三日にして下船せし地獄の鬼にのこさせむとせしなり。

悲慘のみなとに行け。
春ふけし夜をこめてゆけ。
街々の酒は苦く、船宿の女は美しからず。
されど、赤黑き愛欲の
つめたく重い花のいのちになかむ。

哭くは人にあらざりき。
燃ゆるは犬にあらざりき。
かくて犬のごとき人のみゆけ、悲慘の港。

うるはしくなつかしき悲慘の港。
われ、かの港にて犯せし殺人の罪科の追放にあまんじ
いまより後、苦惱をしぼる牛を飼はむとし、大陸の沙漠にゆかむとす。

2021年は詩人生誕110年。23歳で亡くなった2月に、詩集とそして詩稿がやってきたのも何かの縁だろう。

縁といえば、稲門に学んだこと(河田は第二高等学院を一年で退学)、詩人が生まれ育った讃岐は妻の郷国であることが、詩人との微かなつながりに思われる。いつか仁尾の港を訪ねたい。

詩人の生涯については青木正美氏の諸著作に詳しい。詩を書かなくなってからは小説に打ち込んでいたようだ。神戸雄一が主宰していた文芸誌「ヌウベル」第一輯(朝日書房、昭和7年)に寄せた小説「浪の雪」(長篇「山雀」の一節)のおわりは、上に掲げた詩「悲惨の港」を思わせる。

そして由利はふと、連絡船から闇夜の海面に積んでゐた眞白い浪の雪を思ひ出したのだ。バタリと玄關にたふれた由利が叫ぶのであつた。
「兄さん、雪が、浪の雪が──」

文芸誌「ヌウベル」が何輯まで出たか知らないが、第一輯は同年末に『小説・エッセイ』と改題され、同一版を用い上製本で再刊されている。



神戸雄一『岬・一點の僕』作品社、昭和2年

  坂の詩

唯一息に驅けあがれよ
蛇背に似る地質の皺を──

第二詩集。発行所の作品社は神戸の自宅。発行者は野村吉哉。発売所はミスマル社でこれは野村の自宅。
装幀は恩地孝四郎。序文を高村光太郎が、跋文を金子光晴と野村吉哉が寄せている。
扉に恩地の蔵書印。


坂井一郎『揺籃歌』木星社、昭和18年

  冬空

北の町、冬は快よく迎へられてゐた。冷たい風のなかを氷蝶がひとひらひとひら…………舞ひ翔んでゐる。私達は瞳を上げる。左様!! ここでは空は氷海なのだ。海は胎動し氷片は降りしきつてゐる。氷海は神苑を取り周(ま)いてゐるのであらう。氷層の罅裂(さけめ)より天使たちは頬を光らせ地上を垣間見てゐる。雪に乗り、雪に染まり、天使たちは舞ひ下りてくるのだ。そして束の間の生命(いのち)を頌(たた)へ崩れて逝く。涯しない冬を循り、零れ流れる天使たちの血潮は雪の影で白熱し飛翔する。あのやうに青冴えて氷蝶が…………。
すべての窓はひらかれてゐる。天使たちの悲歌はたとへようがないであらう。歌は徐かに私達の泉に溶け入り水嵩はふかまつてゆくのだ。そして私達の上空にて時間と空間とが美ごとに交感したとき、泉は清冽な水沫を湛へ鮮かに湧き溢れてゆくであらう。

北の町、そして冬。白い天使たちの土地であつた。冷たい風のなかを流れ…………氷蝶がひとひらひとひら…………レクヰエムのやうに…………舞ひ翔んでゐる。

小樽で詩誌「木星」を主宰した詩人の第一詩集。装幀・挿画は國松登。


石川道雄『ゆふされの唄』半仙戲社、昭和10年


装幀:谷中安規 序文:日夏耿之介

  冬の夜

横丁を曲つたら月がいよいよ冴えて
軒下に雪が殘つてゐた

雪は泥にまみれてゐたけれど
菊の花が一束さゝつてゐた

菊の花はきなちやけてゐたけれど
捨てられたと思へばいとほしかつた

冬の夜更けの裏通り
風流に寂し過ぎる月と雪と花と──


越智弾政『盗まれた市街圖』黎明社、昭和6年

  胎内中毒

骨の芯にはうつろな世紀のニヒルがある
敵として現はれてくる可抗的な事象の前に
血みどろな蜥蜴の焦燥はないが
屈辱的な呼吸は生活に困憊を與へる
呻吟と切齒の眞只中に旗をおし進めることを恐れはしないが
巢だつことのできない物質の商標は
わたしを未熟な潜水夫とする
笑ひは人生の昧爽を日蝕にする


間野捷魯『體温』日本書房昭和8年

  ゆふかた

窓々の硝子をほのかに染めて
夕映は燃え またひとりで消えていつた。

誰もをらない運動場の
あをい靄のあちらで
小使いの子は白い裾をなびかせ
ひつそりと 遊動圓木に乗つてゐる。

  親愛
   農村學童(3)
腕を擴げてみてもこどもらは飛び込んでは來ない。
かつて
親愛がどんなかたちでなされて來たか………
わたしははげしい羞恥の中で
微笑(ほゝえみ)を凍らせそのまゝ腕をすぼめる
默つて 洟汁をすゝりあげて
こどもらはまためいめいに散らばつて行つてしまつたのだ。

  熟鮎

鮎は熟(う)れて
跳ねかへることがもの憂いものになつてゐた
はち切れさうな腹だ
ものくるほしく
岩のぐるりを廻(めぐ)りつゞけてみても何もありはしない。

眼(まなこ)を据ゑて ぴつたり腹を海底の砂泥(すな)にくつゝけて
鮎はしみじみと産卵したいのだ
海へ あのまつ蒼な海へ往(い)にたいのだ。

どこからかさつと時雨れてきた
水の面の樹の影をたゝいて
雨は細かなしぶきをあげて行つた
そして そんな日
よけいにくるほしくなつた鮎の群は
めぐる岩角で
鰭と鰭とをぶつゝけ合つたりするのであつた。

  ある心境

行きゆきて
行ききはまるところ死がある………

さう想ふとき
いつも わたしはほつとする。


※「ほつ」に傍点


『癩者の魂』全生文藝協會編、白鳳書院、昭和25年


多磨全生園入所者による詩と小説のアンソロジー。児童の作文も。
編纂の中心となった光岡良二(厚木叡)から歌人の中野菊夫宛の葉書が挟まっていた。池袋の古本まつりにて。

厚木叡

  傳說

ふか/″\と繁つた樅の森の奥に
いつの日からか不思議な村があつた。
見知らぬ刺をその身に宿した人々が住んでいた。
その顔は醜く その心は優しかつた。
刺からは薔薇が咲き、その薔薇は死の匂ひがした。

人々は土を耕し、家を葺き、麪包を燒いた。
琴を奏で、宴(うたげ)に招き、愛し合つた。
こそ泥ぐらひはありもしたが
殺人も 姦通も 賣笑もなかつた。
女達の乳房は小さく、ふくまする子はいなかつた。

百年に一人ほどわれと縊れる者はあつたが
人々は首かしげ、やがて大聲に笑ひ出した。
急いで葬りの穴を掘り、少しだけ涙をこぼした。
狂つたその頭蓋だけは、森の獸の喰むに委せた。
いつもする勇者の楯には載せられなんだ。

戰ひはもはやなく、石弓をとる手は萎えていた。
ただ ひそかな刺の疼きに 人知れず呻き臥すとき、
祖(おや)たちの猛々しい魂が歸つて來て、その頬を赭く染めた。
宵ごとに蜜柑色に灯つた窓から、うめきと祈りの變らぬ儀式(リテユアル)が
香爐のやうに星々の空に立ち昇つた。

幾百年か日がめぐり、人々は死に絶えた。
最後のひとりは褐(かち)いろの獅面神(スフインクス)になつた。
頽(くず)れた家々にはきづたが蔽ひ
彼等の植ゑた花々が壯麗な森をなした。
主のない家畜らがその蔭に跳ね廻つた。

夕べ夕べの 雲が
獅面神の双の眼を七寶色に染めた。


小林英俊『黄昏の歌』近江詩人会、昭和33年

  幸福
    (武田豊氏へ)
君のもの静かな態度とあの古い人情は
その日の予定をさへ後悔もなく歪めてしまふのだ

君は時代をおそらく間違へて生まれて来たのではないか
野良猫のやうに嚙み合ふせち辛い世に
君は温順であまりにつつましい

耳を病み、眼を病む不仕合せが
君の心を美しく磨いてゐる
僕は君の不幸が羨しくさへ感じられるのだ


西中行久『街・魚景色』思潮社、1998年

  水の幻

骨を抜かれ軽くなったところで
魚は身くずれしている
水底に沈んだままの石などは
一日聞き耳を立てていて
喋らない

波にもてあそばれる浮きが
ひとのまにまに沈んだり浮いたりしていて
ときどき異様な光を発する
水の街
眺めている眼というありふれた図式

流れに乗った食卓では
眼だけを光らせて
残った家族たちがうまく浮かんでいる

濁った空ではみんな魚の息をした