高祖保の金沢 後篇

昨年8月4日、金沢滞在の最終日、陸上自衛隊金沢駐屯地を見学した。
ここはかつて、陸軍・金沢山砲兵第九聯隊の衛戍地だった。高祖保が、昭和5年12月1日から昭和6年11月30日まで幹部候補生として軍隊生活をおくった地である。
当時の地図によると、隣接して工兵第九大隊、その隣に輜重兵第九大隊、兵器庫と続き、道を挟んで騎兵第九聯隊と野村練兵場があった。

これらの跡地は現在、公務員宿舎や県営住宅、金沢大学附属校の校地などになり、一帯は「平和町」と名を改められている。
地図

高祖の生誕地・牛窓の私設史料館「なかなか庵」で、金沢時代に撮られた彼の軍装写真を見たことがある。軍帽の鍔の下で、どこか不安げな表情を浮かべていたのが印象深い。入営前、高祖は短歌誌『香蘭』で、同好の士たちに向けてこんな挨拶をしていた。

いよ/\あと一回の原稿をかけば砂をかむやうな軍隊生活が控へて居り今月の雑ぱくなる小話の結末と手入れとであと姑く香蘭を失礼さして頂きますがよろしくお願い申し上げます。
『香蘭』8巻12号(昭和5年12月)附録「灰皿」消息欄

歌詠む日々からの境遇の変化は大きい。入営まもないころの心懐を、彼はこう詠んでいる。

入営にあたままるめつ鏡面(かがみ)にはわれらしからぬがうつりてゐるを
『香蘭』9巻2号(昭和6年2月)

金沢駐屯地を訪れたのは、旧軍時代の建物が残されているからだった。丸刈り頭の詩人を知る遺構!
広報係の隊員に引率されながら、詩人の幻影を求む。遠い目をして旧軍の質問ばかりする見学者に、若い隊員さん終始困惑ぎみ。
駐屯地の入口付近に、旧軍の厩舎だったという建物がある。

現在は倉庫として使われているそうだ。すぐそばで展示されている自衛隊のヘリには目もくれず、古びた木造の倉庫ばかりを見つめている。と、向こうから軍服姿の詩人が馬を曳いてやってきた。野外演習の帰りだろうか。歌が、きこえる。

へうへうと竹葉のさやぎそらに散り薄暑のみちをわが馬とゐる(伝令演習)
わが馬に竹のおちばのふきよりて閑かとなりぬわれのこころも
『香蘭』9巻8号(昭和6年8月)


ひかりのなか馬を御しゐる営庭の昼しづかなりいさらゐの汗
『香蘭』10巻1号(昭和7年1月)

駐屯地の奥には、将校の集会所だったという建物が残されている。現在は資料館「尚古館」になっている。詩人もここの敷居をまたぐことがあっただろうか。

内部は、半分が自衛隊に関する資料の展示室、もう半分が旧軍の装備品などの展示室となっている。軍服・軍旗・武器・弾薬…これまで何の接点もなかった品々に囲まれる日々に、詩人は何を想っただろう。歌が、きこえる。

居りわびてこもりけながくなりたればおもひぞ散りてまとまらなくに
『香蘭』9巻8号(昭和6年8月)


あるときはおもひのはてに居るわれにひそかに雨のふりゐたりけり
『香蘭』9巻11号(昭和6年11月)

在営中も高祖は『香蘭』に短歌を送りつづけたが、詩は一つしか発表していない。おそらく、慣れない軍隊生活で上の歌に詠まれたような精神状態だったため、折々の感興をなんとか三十一文字に収めることはできても、詩にまで拡げるのは難しかったのだろう。だが、“MOUNTAIN ARTILLERY”(「山砲兵」の意)と題するその詩は、同時期に書かれた簡素な短歌群に比して外語や幻想的イメージが多用されており、後年処女詩集『希臘十字』(昭和8年)に結実する世界を予感させるものだった。

MOUNTAIN ARTILLERY


白い曙だ。
あれは何だ。ひえびえと営庭から虹が立つてゐる。
    ・
『営舎』――それは凡らゆるグルウミイなる物体の堆積(マツス)。――ある言葉で言へばそれは「古い伝統をなにの懐疑もなく表情している門」。
    ・
わたしは暁闇の営庭に、赤い日本茶で洗面する。
迅(はや)い夜あけだ。昇登する太陽。
たちまち朝の暴風が、みづみづしい青葉の洪水をぶち撒ける。
角膜いつぱいの青色パノラマ。
甃石道のうへで、わたしは仰ぐ。
仰いでそれら夏の旺んなる樹々をみる。
    ・
ヒマラヤ羊歯。
アラビア銀杏。三角松。山毛欅(ぶな)。
それらの下に叢生するもの。
香(かぐ)はしい歓木のむれ。シネラリア。
ああ!
ああそれらは盛りあがるシヤンペンの泡よりも涼しいのだ。
さしあげられた千万本の「生ける掌」の奇蹟と言へるか。
それらは季節を先駆する神のグリンプスなのだ。
    ・
わたしは末枯(おちぶ)れた狐狸のやうに、
一瞬の「空間」を墜ちる――
さつと扇のやうに、ひろがつてゆく「朝」のなかで。
わたしはみた。
かれらの二人舞(ワルツ)。
かれらの円舞(ロンド)。
             (七月十四日つくる)

『香蘭』9巻8号(昭和6年8月)

「グルウミイ」=陰鬱な境遇からも、なんとかして神秘を垣間見ようと踠いていた様子が彷彿される。高祖はその低調な生活の軌跡を、退営後すぐに「軍隊手帖」という詩にまとめた。

軍隊手帖


  その朝
  聯隊区司令官からの令状がとどいた。
  十二月一日〈MOUNTAIN ARTILLERY〉ニ入営ヲ命ズ


そこに夜がひそんでゐた。年老いた母よ。そとに誰かが立つてゐる。わたしのよごれたナプキンがひき裂かれて、木煉瓦と氷花のあひだで、落花の白さで、きりきりと引き摺られた。わたしはじぶんからとほいところにゐるわたしをはじめて識つた。


  聯隊命令
  〈A. CORPORAL〉ノ階級ニススム AUG. 1931


わたしは疲れてる。さう、わたしの髪は氷よりはるかに冷たくなつた。わたしの首はるいるいと縫針よりも痩せた。わたしの頬はせうせうとこけて落ちた。いまや蓬髪垢面だ。それは愛琿の陸稲(おかぼ)畑よりもひどい。見ろ、奥まつたその瞳。それはハイラルの河よりもふかい。………


  聯隊命令
  〈A. SERGENT〉ノ階級ニススム OCT. 1931


しきりにわたしは歯をみがくだらう。わたしは不幸な東洋人のたれもがもつてゐる黄色の「歯漿」を恐れるからだ。苦渋な八千六百四十時間が、涯しもない空間の意識をわたしのうへに組みあはせた。そしてしきりにみがかれてゆく歯といふ歯。歯はますます繊かく、もつぱら痩せた。しろくさいざいと浅はかなひかりを放つまでに。歯の空隙を流れる白体の液は、暁闇のなかで滾れおちるとき、ひとつひとつ菊の花になつた。粉はそれでもへうへうと、雪のやうに散じて放虚な空に沈んだ。


  最後の聯隊命令
  そのうへに大きな「X」――


閑かにわたしの現実の表面が傾斜しはじめた。年老いた母よ。わたしははじめて膨らまない精神の凝集を識つた。昨日とあすの現実のあひだで、大きく歪められ迂回した軌道をどうするか。はげしいゆきどころのない感情の転移のなかに、強靭なスケルツオをたたき込みながら、泣きながら、わたしは叫んだ。
《今こそ缶詰を出るのだ!》


  その朝
  聯隊区司令官からの令状がとどいた。
  十一月三十日〈MOUNTAIN ARTILLERY〉ヨリ退営ヲ命ズ


第3次『椎の木』第1冊(昭和7年1月)

それから10年を経て、日本は社会全体が憂鬱なる営舎のごときものとなり、高祖保の詩人としての軌道は再び「大きく歪められ迂回」していく。
昭和19年、高祖は再度軍隊という「缶詰」に入れられ、ビルマへ送られる。戦地でも常に詩を書いていたらしいが、それらは永遠に失われてしまった。*1 ほんとうの戦場でも、高祖は神秘を垣間見ることができただろうか。今となっては知る由もない。

*1:外村彰 『念ふ鳥 詩人高祖保』龜鳴屋、2009年、354-358頁