高祖保と『ひとで』

  • 石原輝雄 『三條廣道辺り 戦前京都の詩人たち』 銀紙書房、2011年8月27日


マン・レイのレイヨグラフと俵青茅・天野隆一を繋ぐミッシング・リンクの探求記がすこぶるスリリング。ぐいぐい引き込まれたのだが、マン・レイの映画『ひとで』(L'Etoile de Mer 1928年)の日本での受容に関するくだりで、はたと立ち止まってしまった。「マン・レイ」と「ひとで」の組み合わせが、高祖保の散文詩海燕(ひとで)と年」(1933年)を思い起こさせたからである。

海燕と年

 元朝のフレスコ風の雪のなかから、鵲(かさゝぎ)のやうに雪をかついできた郵便配達夫は、わたしに「おめでたう」といつた。かれはわたしの掌に、書翰の一束を落としてすぎる。晩香波にゐるF・Fの賀状には《リネンの月》といふ詩が印刷してある。その詩は剽窃だ。そして星に肖た海燕(ひとで)がひとつ。海燕マン・レイ氏のシネポエムから、写しとつたのであるらしい。海燕は音楽のやうに唄ふ。

高祖保 『希臘十字』(椎の木社、1933年8月25日)所収

この詩の初出は、第3次『椎の木』第2冊(1932年2月)。「海盤車」(ひとで)の題で発表され、詩文中の「海燕」も初出時は「海盤車」の表記だった。

海盤車

 天明の皚々たる雪のなかから、鵠(かささぎ)のやうに雪をかついできた郵便配達夫は、わたしに「おめでたう」といつた。晩香波にゐるF・Fの賀状には〈リネンの月〉といふ詩が印刷してある。その詩は竊窃だ。そして海盤車(ひとで)がひとつ。海盤車はマン・レイ氏のシネポエムから抜抄したものである。「海盤車」は音楽のやうに唄ふ。

外村彰『念ふ鳥 詩人高祖保』(龜鳴屋、2009年)によると、「晩香波にゐるF・F」とはバンクーバー在住の友人のことらしい。「リネンの月」なる詩については、不明。

『三條廣道辺り』によると、マン・レイの『ひとで』が日本で初めて一般上映されたのは1933年2月8日。「海盤車」発表から1年後のことである。それより以前、1930年に東京で試写会が行われているが、当時彦根で浪人していた二十歳の詩人がそれを見たとは考えにくい。
つまり高祖保は、実際の映画を見ずに「海盤車」を書いている。だがその詩文から、『ひとで』についての知識は持っていたことが分かる。
詩人はマン・レイのこの前衛映画をどこで知ったのだろうか。また詩で詠われているヒトデは、映画のどの場面のものだったのか。それが知りたい。

そうした観点から『三條廣道辺り』を読んでいくと、手がかりになりそうな雑誌が二つ浮かび上がってきた。1932年2月以前に『ひとで』を紹介したものである。

  • 『映画往来』 1929年2月号・1930年新年号・1930年6月号
  • 『詩と詩論』 第3冊(1929年3月)

幸い、自宅から近い早稲田の演劇博物館と中央図書館が所蔵していたので、てくてく歩いて確認しに行く。

『映画往来』

1929年2月号では、口絵に『ひとで』の場面写真が使われている。ベッドから降ろしたキキ(マン・レイの恋人で、映画の登場人物)の左素足が、床に開いて置かれた書物を踏んでいる。その書物のそばに、ヒトデがひとつ。
1930年新年号の口絵には、短刀を握るキキの右手にヒトデが重なる場面写真が使われている。またこの号には『ひとで』のシナリオと、岡田真吉による紹介文「「ひとで」について」も掲載。
1930年6月号では場面写真の掲載は無い。だが、「フランス前衛映画批判」という特集で、中島信・淀野隆三・北村小松によって『ひとで』がかなり否定的に扱われている。なお、北村は『ひとで』を松竹キネマ本社の試写室で見たと書いている。

『詩と詩論』

第3冊(1929年3月)では、マン・レイによるアンドレ・ブルトンの肖像写真やレイヨグラフとともに、『ひとで』の場面写真2点が口絵として使われている。が、この写真にヒトデそのものは登場しない。
またこの号には、竹中郁が「マン・レイ氏に就いて」と題する短文を寄せており、パリで観た『ひとで』の感想やマン・レイのアトリエを訪問した際のことを綴っている。
ここで注目すべきは、竹中が映画の日本語タイトルを「海盤車」と表記しており、それを「シネポエム」と呼んでいる点。これは高祖保の「海盤車」での表記と一致する。ちなみに今回閲覧した『映画往来』の各号でこの表記は使われていない。


『念ふ鳥』によると、高祖保の「海盤車」は当時、同郷の詩人で映画評論家の北川冬彦が提唱していた新散文詩運動に即応した詩であるとのこと。その北川が編集していた『映画往来』を、高祖が手に取ったことがあっても、さほど不思議ではない。

また『詩と詩論』に関しても、同人の安西冬衛・近藤東・春山行夫三好達治らは、高祖保が彦根時代に主宰していた詩誌『門』(1929年1月-1930年12月)の寄稿者でもあったわけで、当時の高祖にとっては近しい存在だったろう。なお、今回閲覧した第3冊には、北川冬彦の小論「新散文詩への道―新しい詩と詩人」も掲載されていた。高祖が北川の新散文詩運動に影響を受けていたのならば、この号を読んでいる可能性は高い。

以上のことから、高祖保は「海盤車」を書くにあたって、『映画往来』1929年2月号か1930年新年号、あるいはその両方から映画『ひとで』の具体的なイメージを得、表記に関しては、竹中郁に倣ったと考えられないだろうか。限られた資料しかあたっていないので、推測に過ぎないけれど。