保忌

1月8日は、詩人・高祖保の祥月命日である。
午後、電車を乗り継いで墓参。彼の墓は、東京府中の多磨霊園にある。
1944年7月に召集を受けた詩人は、同年秋ビルマへ派遣された。陸軍第15師団(通称「祭」部隊)の野砲兵第21連隊に配属、1945年のこの日に戦病死したとされている。
「されている」というのは、彼がいつどこで、どのようにして亡くなったのかはほとんど不明だからである。だから墓には未だ遺骨が納められていない。評伝『念ふ鳥 詩人高祖保』で、外村彰氏は戦史を辿りながら詩人の最期を次のように推測している。

ピンレブからウントウの地域で戦線の確保にあたっていた第15師団=「祭」部隊は、12月4日の作戦発令により、英印軍・米支軍とのイラワジ会戦(盤作戦)に加わるべく、同月初旬からマンダレーへ撤退を開始することになった。(中略)
祭部隊はウントウから火砲を運びながら南下し、イラワジ河を目指していた。高祖保もおそらくそのなかに加わって、砲撃の指揮をしていたものと思われる。(中略)
祭部隊は、敵機の来襲をしばしば受けながら、〔1月〕2日にタンゴンからジゴンへ到着した。そこで追撃する敵部隊に反撃し、5日にキヌまで後退した。翌6日早朝にも戦闘があった。
祭部隊は7日夜からキヌを撤退。1月9日に、南方のシュエボに集結した。(中略)
混乱のなかで祭部隊がキヌを去るおり、すでに「発病」して動けない躰となっていた詩人は、「戦友」たちと別れて同地に滞留したと考えられる。彼が亡くなったとされる1月8日は、祭部隊が7日の夜中に撤退した翌日付であった。
あるいは詩人は激戦のさなか、糧食も施薬もない急ごしらえの野戦病院で、誰にも看とられずに逝ったのではなかったか。

外村彰 『念ふ鳥 詩人高祖保』 龜鳴屋、2009年、353・356頁

霊園入口から10分ほど歩いたところに「宮部家之墓」はある。ここが高祖保の墓である。彼は1937年から叔父の家を継いで宮部姓となっていた。
墓石脇の墓誌に、叔父や母などとともに詩人の法名が刻まれている。

玲瓏院玄鶴天童居士

詩人の友人で俳人、青柳寺住職でもあった八幡城太郎がつけた。玲瓏たる詩を書いた彼にふさわしいではないか。「鶴」は、八幡が好きだったという詩「孟春」の第4連

けふ、とほい噴きあげのうへを、一双の鶴が身をひるがへして、消えた。ただ、それつきり。が、そのこゑだけが、ふしぎに黄塵のやうに、ざらざらと心にのこつた。

から取られている。「天童」は、百田宗治がかねてよりつけていた高祖保の別称。

花を取り替え墓石の周りをひとしきり掃除する。雲ひとつない青天のもと、うっすら汗ばむ。

遠天の、北斗の星を われと見つ
  華かにあおし、空の世界は

高祖保 「詠草三十七首」より(『青芝』 天童高祖保追悼号(1954年11月) 収載)

こんな詩人の歌を想いながら北天を仰ぎ、改めて墓参の報告をする。

乾いた風に、供えた花がかすかに揺らいだ。