山下町の夜

神奈川近代文学館で古い雑誌をいくつか繰ったあと、夕暮れの港町を散策する。
小高い丘から横浜公園のほうへ。かつてその近くに、高祖保の勤め先「宮部末高合名会社」があった。そこはいま灰色の立体駐車場になっているのだが、詩人ゆかりの地であることに変わりはない。その前で目を細めてしばし佇んでいると、貿易商社らしいどっしりとした洋館が、続いてなかから勤めを終えた詩人の幻影が現れた。後を追うと、山下公園の前へ出た。
幻影は、こちらが信号待ちしている間に公園のなかへ吸い込まれてゆき、やがて木立の闇に紛れて見えなくなってしまった。
詩人が溶け込んだ公園は、それ自体がこんな詩になってみるみる暮れてゆくのだった。

 山下町の夜


「灰色(グレイ)一枚でおりてくる冬!」と書いた
「後(うしろ)から足ばやに、私を追ひ越すゆふぐれ」とも書いた
その冬のゆふぐれが
ぽつぽつ、街燈に燻(くす)んだ灯(あかし)をいれてゐる
――横濱 山下町の、ここから海が展(ひら)けるところ…



たつた一つ、――ごらん、外國商館の屋上の、幽婉な抛物線(パラボラ)が昏れのこつてゐる。(ゆふぐれよ、あれはお前がけふの忘れものだ)夜ぞらをくつきり劃つてゐる明暗。その凉しやかなスカイ・ライン。――まだ早い夜の、まだ星かげうすい空…


碇泊した Empress of Asia が
海へ明るい點燈装飾(イルミネエシヨン)の灯をおとしてゐる
(そのあたりだけ、海が燃えてゐる)
赤い土耳古帽のせた ひよろながい印度人の火夫が
烟艸(たばこ)を薫ゆらせてとほる
その後から、青い星を散らす電車のポオル。



わたしは歩み入る、街路樹の鈴懸(プラタヌス)を涵してゐる闇へ。それはSといふ外國商館のまへで、注文帳(オオダアブツク)の黒の背革よりもくろい。闇に紛れてわたしはみる、二輪車のいくつかが、闇なかに憩(やす)んでゐるのを。――いまや夜が、それを平和な睡眠(ねむり)のなかへ裹(つゝ)まうとするとき、そのどれもが、圓(つぶ)ら瞳(め)に肖た灯を點けたまんま…


公園の噴水(ふきあげ)。 (孤燈のかげに
夜の鶴をわたしは象(かた)どる
天から堕ちた純白のマダム・シゴオニュの扇)



ゆふあかりの青黛が仄のり匂ふ。あの自轉車置場に、囁き交してゐる地上の參星(オリオン)。いみじい、だが、草かげの鬼灯ほどしかない、これらの星たち!



高祖保 『雪』(文藝汎論社、1942年) 所収