書斎は人なり

最寄の諏訪神社に初詣したのち、購書始めとて松屋浅草の古本まつりに行く。

文人・学者ら33名の息子娘による、父の書斎のメモワール。雑誌『書斎』に昭和15年8月号から18年1・2月合併号まで連載された同名随筆をまとめたもの。装幀・河野通勢。
ボルヘスはかつて、書物は人の記憶と想像力の拡大延長であると言ったが(『ボルヘス、オラル』)、書斎もまた然り。

巖谷小波

年に一度若くは二度、必ず父はその書斎の模様変へをした。私達の商売で云ふ舞台装置を変へることである。それ迄北面してゐた机を東面させるかと思へば、それ迄西面してゐた書棚を南面させた。テーブル、椅子、額、ストーブまで、その都度向きを変へた。この舞台装置の転換によつて、確かに父は自分の気持の転換を行つてゐたことは明らかである。
(巖谷三一)

内田魯庵

引きかき廻された書庫は自然生活に追はれる彼自身の頭脳にもふさはしい。そこにはアナトール〔・フランス〕の貴族的な中世の匂はなく、その乱雑な本の堆積中から現実が抜き出されたり、抛り出されたりするやうに、書物と呼ぶ知識の素材が生活資源の戦場をいつも荒々しく表出してゐた。
(内田巖)

岡倉天心

天心の晩年にはあまり書物を貪読することはなく、稀にその最も愛した龍王丸の釣船の中へも、読みたい和漢洋の書籍を携へていつて読んでゐたやうである。彼の操舟者であつた渡辺千代次の話では「何んなお好きな大鱸がよつてゐても、大旦那様は、さうかい、さうかいとうなづかれるのみで、持つて来られた御本から御目を離さうとは遊ばしませんでした」とあつたが、(中略) 晩年は自らゐる場所が書斎であつたまでに悟を開いてゐたと、千代次のこの物語を聴いても思はれてならない。
(岡倉一雄)

辰野金吾

朝、父の書斎で目が覚めて、先づ自ら目にはいるのが欄間の額であつた。ヴェネチアサン・マルコ広場の写真なのである。
辰野隆

坪内逍遥

天井も低目な小取廻しの部屋に、或意味では新しがり屋と云はれさうなエキゾチックな小道具類が掛けたり並べたりしてあるかと思ひますと、純日本式の芝居絵の張り交ぜ屏風や襖があり、机は机で、近松門左衛門愛用の物を模した机、と申す風の独特の工夫がふんだんに凝らされてをりまして、簡純な近代感覚の持主には少々応接に暇あらずの感が濃過ぎ、あゝまで意地になつて演劇的雰囲気に包まれる工夫をしないでもよいではないか、と第三者からは批評されるに相違ないと思ふほどでございますが、
坪内士行

馬場孤蝶

書籍は良く買ひましたが(それも専ら安本ですが)これを納める本箱の方まではなかなか経費が廻りませんでしたので、又別にそれを苦にもせず、自分でもどうも本箱を一つと思ひながら、遂々本を買つてしまふよと笑ひながら申して居りました。
(馬場昴太郎)

森鴎外

その書斎は昔の武家屋敷風の玄関を這入ると、左へ行く直ぐとつつきの所の八畳だつた。東側の広い壁全体は、天井迄届く程の高さが全部本棚となつてゐて、多くの和書が、幾段にも積み重ねられてゐた。その和書には、細い赤紙がいくつも垂れさがつてゐる。父は時々少しづつさうした書物を持出しては、縁に出て、鳥の羽で大切さうに本の塵を払つてゐた。中には枯れたいてふの葉が、ところどころにはさんであつた。そして彼の熱心な丹精にも拘らず、虫の食つた跡が、みみずの這つたあとみたいに、面白い形で残つてゐた。
西側にはガラス戸のはまつた本棚があつて、此処には、洋書が詰まつてゐた。父が深い愛情と注意を払つてゐるこれ等の書物は、離れの土蔵、(二階附きの)書斎、洋室、玄関、廊下等、あらゆる場所の、それぞれ天井迄届く程の棚を埋めてゐたのだが、これ等の本は母にとつては、厭ふべきものとして見られてゐたやうである。
小堀杏奴