琴所探訪

ローカルな話題ふたたび。

この江戸時代のオモシロ人物伝に、彦根の隠士・澤村琴所(1686-1739)なる漢学者の伝がある。

彦根隠士維顕、字伯楊、澤村氏、號琴所、通名は宮内。國侯の世臣なれども、江戸に近待せる日、心疾によりて退く。國制心疾を憂るものは復出仕ふる事を得ず。故に意を官途に絶チ、城南松寺村に閑居す。其居を松雨亭といふ。後再び起ことを諷るものありといへども不肯。貧を分とし、琴書を楽みて隠を全せり。天資温恭、長中人に不及、状貌婦女子のごとしといへども、事に臨て勇敢なる、其一つをいはゞ、平安より帰る日、湖中暴風にあひて船覆らんとす。衆人皆生ける心地なきに、琴所ひとり自若、舷を扣てうたふの類、其平素に異なるを見て、人怪しぶに至る。又自云、吾固一善状なし。唯貨色二のものに在ては、未人に對していひがたきものあらず、と。又過を聞ては欣然として改む。奴隷の言といへども取べきことあれば必したがふなど行状に記せり。始宋學を事とすること年あり。後東涯の門に遊び、又徂徠の書を讀て、ますます古義を喜ぶ。其主とする所經濟の學にして、著す所桓公問對、富強録あり。出仕ずといへども、國を憂るの志により、時を救ふの要務也とぞ。又兵法に精く、八陣本義其外著書數部有といへども、稿を脱せざるもの多しとなん。又詩歌を好む。詩には琴所稿刪、歌には閑窓集をとゞむ。元文四年己未歳正月九日卒す。壽五十有四也。其詩歌は口気平温にして雅正なるものといはんか。

云々。

彦根出身者としては気になる人物。その詩文集『琴所稿刪』(宝暦2(1752)年刊、国立国会図書館蔵)の巻末に、詳しい行状記と墓碑銘が収録されている。これを手がかりに旧跡を訪ねた。

琴所の私塾・松雨亭跡の碑。彦根市南部、葛籠町のあたり。実際はこの70m西にあったという。

琴所はこの私塾で荻生徂徠の思想に基づく古学を講じ、旧態依然と宋学朱子学)を奉じていた彦根藩に新たな学風を吹き込んだ。彼のもとに集まった中・下級藩士により、彦根藩徂徠学派が形成される。また詩歌の指導も行われ、行状記は、「国中、今詩若クハ和歌ヲ言フ者有ルハ、亦タ皆先生ノ之ヲ倡フルニ頼テナリ。」と伝えている。

松雨亭跡の碑から西に少しゆくと河瀬小学校があり、ここに琴所の顕彰碑が立っている。「皇紀二六〇二年 春」の建立。

墓碑は高宮町の徳性寺にある。彦根藩「侍中由緒帳」によると、その葬儀は、隠者にふさわしくない、と家督を継いでいた弟・之登が藩から叱責を受けたほど盛大なものだったという。


最後に、『彦陽和歌集』から琴所の歌を一首。

  元日によみ侍りける
やとことに引しめ縄のすなほなる神代もけさの春におほへて