厦門採訪 集美篇

古い旅行記を読むのは、楽しい。
かつてあった、今もあるかもしれない街並や風俗のなかを、著者とともに巡る。それは、居乍らにしてできる時間旅行。読書ならではの楽しみである。妄想逞しゅうすれば、旅愁さえ味わえよう。

例えば、佐藤春夫 『南方紀行 厦門採訪冊』(新潮社、1922年)。

およそ90年前の怪しげな厦門の路地や、洋館建ち並ぶ共同租界の島・鼓浪嶼、本土の集美、漳州を散策することができる。

同行の著者は当時、谷崎夫人への恋に鬱屈していたので、なんとも気怠い旅となる。が、くたびれた時なんかにはそれもいい。2月の書窓展で本書を購って以来、時おり伊上凡骨の装画をながめつつ妄想時間旅行を楽しんできた。旅費は300円ぽっきり。

9月2日も、そうして昼間から妄想に耽っていた。ただ、いつもとちがって今回は、

雲の上で。

『南方紀行』を手引きに、妄想と現実のあわいに身を置いて厦門を歩いてみよう、そんなことを思い立ったのだった。

厦門高崎国際空港から厦門島西南の宿にたどり着いたのは、午後2時過ぎのこと。
荷物を置いて、タクシーでまず本土の集美に向かう。

厦門といふところは言ふまでもなく島だが、それを取囲んでゐる湾が所謂鷺江である。厦門島の北端が鷺江を距てて相対してゐる本土の一角に集美(Chip'-Bee)といふ貧寒な一漁村がある。この小さい漁村が四五年前から厦門地方では、突然、大変有名な土地になつて来た。といふのは、そこに集美学校といふ学校が出来たからである。――集美といふ地名をそのままかぶせたのであらうが、集美学校とはいい名前ではないか。この学校は私立学校なのだが、既に、小学校、中学校、工業学校、師範学校高等師範学校、高等学校、それに女子高等小学校などもあつて・・・

現在では、幼稚園から大学までそなえた「集美学村」という学園都市になっている。
学村の入口。漢字の下には"THE JIMEI SCHOOL VILLAGE"の表記。

『南方紀行』によると、ここに学校群を設立したのは、陳嘉庚・陳敬賢という華僑の兄弟。ゴム園で成した富を投じたそうな。佐藤春夫が訪れた頃には、厦門島に厦門大学も創立しようとしていた。

案内板を見ると、陳嘉庚の功績の方が大きいようだ。嘉庚公園や陳嘉庚記念館、陳嘉庚先生故居などが整備されており、集美学村はさながら陳嘉庚記念村の様相を呈している。

陳嘉庚の像。後年、毛沢東が「華僑旗幟、民族光輝」と讃えたそうな。

私達は磯の匂ひのする道を向うの赤煉瓦の建物へ急いだ。その赤煉瓦の広大な二棟は二階建ちで、その外に幾つかの低い屋根が長低錯雑して連なつて見える。東京の怪しげな私立大学の校舎などよりずつと宏大である。

そう、今でも東京のちょっとした私立大学よりずっと宏大で、建物も立派。
例えば、これは集美中学の建物。


城か宮殿かと見紛う豪華さ。洋風建築に中華風の屋根をのっけた独特な姿をしている。なんとなく日本の帝冠様式を彷彿させる。

日曜日とあって、学校に子供たちの姿はない。界隈では観光客の団体やカップルが散策を楽しんでいる。

学校群からはなれて、ぶらぶらとゆく。

村は漁村特有の臭ひが熱気に蒸れてゐたが、軒並の低いその町には日ざかりだから人通りはひとりもなかつた。

いや、日ざかりでも町に人通りが絶えることはなかった。出鱈目に歩いていたら、とくに繁華な通りに出た。

若者多し。集美の原宿といったところか。

現在の集美は、90年前の「貧寒な一漁村」の面影は何処にもなく、活気ある若者の町という印象であった。