とろとろ桃のフルーニュとモンテーニュ

最近はまっているキリンの「とろとろ桃のフルーニュ」。

3年ほど前から出ている商品で、今年リニューアルされて乳酸菌が加わり、名前の方は散文味を増して「乳酸菌ととろとろ桃のフルーニュ」になった。

果汁10%未満だが、

すこぶるフルーティ。

さて今日は、ゲストのミシェル・ド・モンテーニュ氏に、この商品の魅力を存分に語ってもらう。同時通訳は原二郎氏、一部、関根秀雄氏・斎藤広信氏ペア。ではムッシュー、よろしくお願いいたします。

いささか思い切って真実を言う。
『エセー』第3巻 第2章「後悔について」

ええ、ざっくばらんにいきましょう。

こんなつまらぬ、むなしい主題のためにあなたの時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう。
『エセー』「読者に」

えっ? いや、そこをなんとか・・・

私は自分を支配し、指図することが十分にできない。私よりも偶然のほうが、私の上に権力をもつ。私がひとりだけで私の精神を探ったり用いたりするときよりも、機会や仲間や私の声の振動さえもが私の精神からより多くのものを引き出すのである。
『エセー』第1巻 第10章「弁舌の遅速について」

そ、そうですか。では、インタビュー形式でいきましょう。まず、これを初めて飲んだ時の印象を教えてください。

記憶について口出しすることが私ほど似合わない者はない。というのは、私は私のうちにほとんど記憶の痕跡を認めないし、世の中に私の記憶ほど異常に欠陥のあるものはないと思うからである。
『エセー』第1巻 第9章「嘘つきについて」

そ、そうですか。では、ここで一杯召し上がっていただきましょう。
どうぞ。

普通の水に何か混ぜものをしているのではないかと思う。
『旅日記』

ええ、そうでしょうとも。で、お味の方は?

淡い甘味しか感じなかった。
『旅日記』

そうですか? もうすこしお召し上がりください。

いかがです?

塩からかった。
『旅日記』

ん? それほどでもないと思いますが、するどいですね。なぜだかお分かりになりますか?

人間は事物を前にすると、きまって、その真相を求めることよりも理由を求めることに没頭するようである。事物をほったらかして、原因を論ずることに没頭するようである。おかしな原因追求者たちである。原因の認識は、事物を支配する者だけがすることである。だが、事物を受けるだけで、事物の始源や本質にまで入り込まなくとも、われわれの本性に従って十分にそれを使用することのできる人間には関係のないことである。
『エセー』第3巻 第11章「足なえについて」

愚問でしたね。失礼しました。ちなみに、隠し味に塩が使われているそうです。甘さをおさえて味をひきしめるんだとか。

われわれは本性無力であるために、事物を自然の単純で純粋な姿で味わうことができない。
『エセー』第2巻 第20章「われわれは何物も純粋に味わわない」

ごもっとも。

ところで
『エセー』第1巻 第27章「われわれの能力で真偽をはかるのは愚かである」

どうぞ。乗ってきましたね。

私は自分を知ってもらうことに飢えている。
『エセー』第3巻 第5章「ウェルギリウスの詩句について」

は?

私の心は、まったく気ままに、自己流に振舞うのに慣れている。現在にいたるまで外から支配者も主人も強いられたことがないから、好きなだけ先へ、勝手な足どりで進んで来た。
『エセー』第2巻 第17章「自惚について」

い、いや、それはちょっと困りま・・・

誰でもつまらぬことを全然言わないというわけにはいかない。困るのはそれを本気で言うことである。
  苦心惨憺の末にとてつもないばかを言う。(テレンティウス)
これは私には関係がない。
『エセー』第3巻 第1章「有利なことと正しいことについて」

はぁ。

私が初めて恋の家来になったのはどのくらい幼い頃であったかを告白することは、たしかに迷惑でおかしなことである。
『エセー』第3巻 第13章「経験について」

・・・

ただこのことだけを言っておく。
『エセー』第1巻 第14章「幸、不幸の味は大部分、われわれの考え方によること」

・・・

この世に女ほど美しいものはない。
『エセー』第3巻 第3章「三種の交わりについて」

・・・

そして
『エセー』第1巻 第4章「心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向けること」

「恋の情熱があまりに強すぎるときは、散らすのがよい」と言うのは正しい。私もしばしばこれをやってみて効果があったからだ。恋の情熱はこれを他のいろいろな欲望のなかに粉砕するのがよい。
『エセー』第3巻 第4章「気をまぎらすことについて」

・・・

私は他のどの主題よりも自分を研究する。これが私の形而上学であり、自然学である。
『エセー』第3巻 第13章「経験について」

・・・

私は健康のときも、病気のときも、あまり喉が渇かない質だ。病気のときはよく口が乾くが、飲みたいとは思わない。普通は、食事の途中か、食事がだいぶ進んでから、飲みたいという気が起こったときに初めて飲む。普通の体格の人間としてはかなりよく飲む。夏に、おいしい食事のときには、きっかり三杯しか飲まなかったというアウグストゥスの限界を越えるばかりでなく、四という数字を不吉なものとして、それでやめることを禁じたデモクリトスの規則にそむかないために、欲しいときは五杯までおまけをして、約四分の三リットル飲む。五杯というのは、小さい杯が気に入って、それを乾すのが好きだからだ。だが他の人々はこれをみっともないこととして避ける。
『エセー』第3巻 第13章「経験について」

・・・

私は夏のきびしさが冬のきびしさよりもつらい。暑さの不快は寒さの不快よりもいやしがたく、太陽の直射光線が頭に当たる上に、あらゆるまばゆい光に目をやられるからである。今では明るく燃えさかる火に向かって坐って食事をすることができない。今よりも読書の習慣があった頃、白い紙のまぶしさをやわらげるために、書物の上にガラスを一枚のせるとたいへん楽だった。私は今まで眼鏡をもちいたことがない。昔と同じに、皆と同じに遠くまで見える。もっとも、日暮れになると読むのに混乱と衰弱を感じ始める。この読書という行為は常に私の目を疲れさせたが、
『エセー』第3巻 第13章「経験について」

あの・・・

とくに夜がひどかった。
『エセー』第3巻 第13章「経験について」

そろそろ・・・

私のようにがつがつ食うのは、健康を害し、食事の楽しみまでも損う上に、みっともない。私は急いで食べるために、しばしば舌を嚙む。ときには指を嚙むこともある。ディオゲネスは、こんな食べ方をする少年に会って、その教師に平手打ちを食わせた。ローマには
『エセー』第3巻 第13章「経験について」

ムッシュー、そろそろ・・・

話を続けよう。どうせここまできたのだから。
『エセー』第1巻 第48章「軍馬について」

いえ、もう・・・

さて、話を元に戻すと、
『エセー』第1巻 第31章「食人種について」

申し訳ございません、お時間となりました。
最後にひとつ教えてください。「フルーニュ」とはどういう意味なのでしょう? フランス語ですか?

Que sais-je?
『エセー』第2巻 第12章「レーモン・スボンの弁護」

ありがとうございました。


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