明治記憶術ブームの記憶

その1 「団団珍聞」第1030号、明治28年9月28日付

○記臆屋  礫水道人
一軒記臆屋の店が出来るト向ふにも出来隣にも出来一軒置た隣又その隣ト出店が先から先へと出来るのみか記憶の荷を背負て競り売りするものさへ有て記憶術の 声は耳に絶えぬが是も矢張り記憶術を人に記憶させる術で有たか

その2 「団団珍聞」第1046号、明治29年2月8日付


(狂句)
暗誦出来ぬほど殖えた 記臆法  兵庫銅升

その3 宮武外骨 『奇態流行史』 堀岡良吉 刊、大正12年、94頁

※江戸時代、明和年間(1764〜1772年)頃にも同じような記憶術ブームがあったとの記述が興味深い。

●記憶術の伝授
米国紐育市にエロイゼッテという心理学者があつて、我明治二十年頃、新発明の記臆法を講義すると称し、二十八弗の伝授料を取つて教授したのが当つたので、同年内田周平〔引用者注:田中周平の誤りと思われる〕といふ者が訳述した『記臆法』を初めとし、明治二十六年に無名子の『実験記臆法』、同二十七年に井上円了の『記臆術講義』、渋江保の『記臆術』、同二十八年に太田肇の『記臆術』、島田伊兵衛の『島田記臆術』、和田守菊次郎の『和田守記憶法』など云ふのが続出して、記憶術という事が大流行であつた、中にも和田守菊次郎といふ山師は内田周平にマネて自己の新発明なりと称し、三円以上三十円の伝授料 を取つて人々に講義し、それが一時世間に喧伝され、朝野の名士と呼ばるヽ輩までが欺かれて伝授を受けたが、其頃角田真平といふ者が同じく其講義を聴きに行き、ナルホド和田守の発明といふ記憶法は有益のものであると感心しながら、其帰りに自分の帽子を忘れて来たといふ一笑話もあつた、当時予は其記臆法の流行が癪に障つたので、予は明治二十八年七月に心理学応用の『忘却法』といふのを公にした、それは西哲の云ひし「忘却の必要なる度は記臆の必要なる度に均し」という格言に 基いたのである、(それに続いて前記の井上円了も予にマネて『失念術講義』といふのを出し、杉山藤次郎〔引用者注:枯木仙士のことか〕は『新奇忘却法』といふのを出した)
古い俗謡に「昨夜色里で、はやる小謡を習ふた、後先ヤア覚えなんだが、中の所は忘れた、さアこそあンぺけとて、書いて貰たが、それさへ出口へ置忘て来た」とある如く、記臆力の強弱は其人の天性と体質や境遇にあることで、法術などの効力は甚だ少いものである、されば一時流行した記臆法は、結局山師共の財布を肥やしたに過ぎずして、間もなく世間に忘れられて了つた
其後古書を渉猟して、明和の昔にも同じ様な事があつたのを発見した、明和八年頃京都に右の内田周平や和田守菊次郎等と同じ山師学者の山本一馬、藤逸章などいふのがあつて、『記臆秘法』、『物覚秘伝』といふのを出し、又それにマネた『物覚早伝授』だの『物覚秘密伝』などいふのを出した者もあつたので、�草堂主人と号するスネモノは『古今物忘れ』といふ奇書を著はし、和漢古今の歴史は固より、詩歌俗謡落語等、物忘れに関する記事数十項を集めて発行した、要するに此記臆術伝授といふ事も、間歇的流行の一つであつた

(『宮武外骨著作集』第4巻 河出書房新社、1985年、426頁)
近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/927420

宮武外骨『明治奇聞』(河出文庫)58-59頁にも収録。ただし省略あり。

その4 石井研堂明治事物起原』第七編 教育学術部

記憶術の始め
和田守菊次郎、記憶術の発明を発表せしは、明治二十八年なり。ところどころにてその実験を試み、連絡なき数字等をいひあてること、これを掌上に探るがごとし。同年七月ころ、類似の同法、陸続世に出づ。

ちくま学芸文庫版、第4巻、63頁)

明治41年の同書初版にこの項はない。よって、大正15年・昭和11年昭和19年のいずれかの増補改訂時に加えられたものである。