豊かさの影で

今週はのっけからこんなイベントに行ってきた。

とても重い内容の3連チャン。消化不良気味でちょいと胃もたれが・・・

このところ官民あげて導入の検討が進められている、デジタル教科書。その教育効果については賛否両論あるが、障害のためにそもそも使えない子どもたちが出るかもしれないという可能性については、あまり問題にされていないのではなかろうか。

9/5の討論会「障害のある〜」は、視覚障害ディスレクシア(読み書き障害)などがある児童・生徒のために製作されるデジタル教科書をめぐるもので、一般に議論されているデジタル教科書の是非を問うものではなかったのだが、後半に会場の参加者から提起された問題は、上記の可能性を示唆していて、ハッとさせられた。こんな発言だった。

(一般の教科書が)デジタルになったらどうなるか。きっとコンテンツ制作会社は、動画とインタラクティブないろんな仕掛けに力を入れてくる。そしてそういったものを、子どもたちの気を引くためというより、「子どもたちの気を引くのではないかと思う大人」のために売り込む。これをアクセシブルにするのは非常にコストがかかる。人間力が要る。

想像するに、動画や画像やインタラクティブな仕掛け満載の教科書を、例えば視覚障害児にも使えるよう点字やテキストや音声に置き換えるのは、至難の業だろう。コストや労力の問題以前に、ほとんど無理な場合もあるかもしれない。また、視覚障害児の何十倍もいるであろうディスレクシアの子どもにとっても、そのままでは使いこなせない可能性がある。デジタル教科書を推進している賢人たちは、そこまで想定してことを進めているのだろうか。


9/7の講演会では、読書行為の歴史を研究してきたシャルチエが、今日の書物をめぐる動向をどのように見ているかに注目。「本とは何か。古代のメタファー、啓蒙時代の諸概念、デジタルの現実」と題する講演の前半では、18世紀に著作権概念が生まれたことで、エクリチュールとフォルムの関係、あるいは著者と著作の関係がどう変わったかを、歴史家らしく実例や引用をたっぷり盛り込んで熱弁。後半は書物のデジタル化について。ボルヘスの「バベルの図書館」なんかを引用しつつ、とりあえずその意義を認めてはいるが、聞いているとどうも危惧している点の方が多そうだ。
「テクストは、その媒体が変われば読者や読み取られる意味も変わる」というシャルチエは、デジタル化されたものがどんなジャンルでも同じ端末で読まれるようになると、媒体と読者との絆、すなわち雑誌とか新聞とかいった媒体の物質性に読者が導かれるということがなくなると考えている。雑誌記事などは断片化されて全体のなかの一部として捉えられなくなる、とも。また、デジタル化がGoogleのような一企業によって独占的に進められることには特に批判的だった。予算不足の図書館としてはGoogleと組みたいところだが、公的資産を営利企業に渡すのには慎重になるべきで、デジタルライブラリーは図書館の主導で一貫したコレクションが構築されるべき、という。
講演のあとはシャルチエと福井憲彦氏(学習院大学学長)・長尾真館長による鼎談。シャルチエがしゃべり過ぎであまりうまくいっていなかった。最後に会場から寄せられた「デジタル時代の図書館と司書の使命は」という質問に対しては、以下の3つを使命としてあげていた。

  1. 過去の保管庫:過去の人々がどのように書き、読んでいたかを見ることができる場所。我々と過去との関わりを見せる場所。
  2. デジタルライブラリー
  3. コミュニケーションの場:書かれたものについて話される場所。講演会・展覧会などが行われる市民教育・学術教育の場所。

※注意:以上、記憶と同時通訳の手書きメモに基づくため、ニュアンス等実際と異なっている可能性あり。


最も重かったのが、9/6に行った水俣展。ウチの社会派・吾妻氏が誕生日プレゼントとして連れて行ってくれたのだが、こんな重いプレゼントもらったの初めてだ。全部ちゃんと見たら3時間かかった。日本の高度経済成長の負の遺産ともいうべき水俣病の歴史が詳しく学べる。

豊かさを追求するあまり、その陰で苦しむことになった人々の問題が軽んじられるという悲劇は、様々な次元で今日でも充分起こりうるのではないかと思ったのだった。