明治の記憶術書を読む その1

  • 山岸利策 編 『ワデル先生秘訣 健胃記臆増進 薬剤法秘書』(第10版) 山岸利策 発行、明治28年7月

古書価3,000円也。高いんだか安いんだかよくわからない代物。文庫本ほどのサイズ。初版は明治25年6月。国立国会図書館近代デジタルライブラリーで、28年4月刊の第9版が読める

おもしろいことに、この第10版では「附録」として『記臆反面 新竒忘却法』(枯木仙士著、明治27年7月)なる忘却術書が合本されている。

本編がたった16頁なのに対し、附録は約倍の33頁ある。ちなみに、第9版・第10版ともに55銭也。編者兼発行者の山岸利策については不詳、追記参照。表紙の「板倉家執事」との関係や如何に。謎の外国人「ワデル先生」については本文中何の言及もない。

開巻劈頭、「胃病根たやし記臆力を増進する一大妙薬調合法及び説明は封中に詳記しあり購求者乃外一覧を許さず」と、立ち読みを厳禁。次の頁では「忠告」として、薬剤が不足な場合は23銭払えば板倉家で調合した極上品を送るとある。

本書は「秘書」であるからして、いきなり記憶増進薬の調合法を披露するなどという野暮なことはしない。まず厳かに説かれるのは、「心理的記臆力増進法」。曰く、記憶は体力と分ちがたい関係にあるため、記憶力を強めるには身体全体、なかんずく「脳力」を強壮ならしめ健全に保たねばならない。「脳力が健壮なれば記臆も亦随て強壮なること論を俟たず」 そのためには睡眠をよく取ること。記憶力の弱い者は、強い者と同じだけ覚えようとしないこと。事の有用・無用を識別して記憶力を節約すること、云々。

次に説かれるのは、「遺忘せしを思ひ起すの方法」。曰く、ものごとを忘れるのは「既に脳底に其痕跡を留めざる」ためである。だから全く忘れてしまったものは思い出すことができない。だが、全く忘れてはいないけれど思い出せない、という場合は、「その之に連絡したる所ろの時期物品居所等を着実に熟考するときは、必ず之れを喚起するを得ざるものあらざるなり」。外国語を覚えるときは、最初からたくさん覚えようとすると脳底にためておけないから、「二三或は四五件を誦読して、而して能く之を反復熟慮」すれば記憶が厚くなり忘れることが少なくなる。この要領で積み重ねていけば、40件50件、100件200件と増えても記憶でき、忘れることもなくなる。また曰く、記憶には順序がある。「凡て事物の覚官に触れしとき、其知覚感覚したる所の理会を深く心裏に収め、而して後ち能く之を永遠に保存」するのであるから、適宜このように実行すべし。 用例:学校の教師が生徒に、翌日小学読本2巻を持ってくるよう命じる。が、多くの生徒は忘れてくる。そんなときは、命じるとともに生徒に糸かコヨリを指に結ばせる。さすれば、翌日生徒は縛った自分の指を見てその理由を考え、教師の命じたことを思い出す。

次は「記臆は注意を要するの説」。曰く、記憶には反復熟読が大事。そして注意を怠るな。「記臆するには注意が欠く可からざる最も切要の法なり」

…と、ここまでが前置き。11頁の最終行に至って、ついに「健胃記臆増進 薬剤法」という見出しが現れる。なぜ今さら「健胃」なのか、よくわからない。頁をめくると、いきなり材料と分量が列記されている。

  • 洎芙蘭(サフラン) 1分5厘
  • 健質亜那(ゲンチアナ) 6匁6分
  • 茴香ウイキョウ) 3匁
  • 幾那皮(キナ皮)5匁
  • 丁香 2分
  • 橙皮 6匁6分

それぞれを調べると、なんの事はない、すべてただの健胃薬である。これらをアルコールか焼酒3合に約5日間つけ(初めは時々振り回すべし)、布で濾して透明褐色の液体が得られればOK。用法は以下の通り。

用法は凡そ一度に五勺程の水に該薬十五滴より二十滴ほどづゝ(但し適宜)注して飲べし一日に三度位も用ゆるを妙とす○暑中または酒後其外いつにても水を飲む時は凡そ湯碗一盃の水に五六滴より十溺はかりも注して飲むべし、少し砂糖を入てのむもよし、又酒を好む人は適宜酒に滴て飲むもよし○癪○溜飲○腹痛其外とも病ひ強く起りたる時は水を少量加へ即ち該薬七分に水三分位の割合にて凡一勺程も服用すべし

効能は以下の通り。

第一胃のはたらきを能し、膽液の不足を補ひ、食物の消化を能し、身体を壮健にし能く物事に堪へるの力を増し、音声を美し、心気を快爽とするの功能あり

あれ、記憶力は? 最後に「経験上効能」がいろいろ列記されているが、記憶に関してはひとこと「覚えのわるきによし」とあるだけである。
最終頁の余白に「読者諸君に謹告す」と、またもや告知が出ている。本書のクスリを服用しても効薄く記憶力乏しく困っている人には「急劇薬」にて調剤した散薬を実費配布するとある。10日分30銭(送料2銭)、20日分50銭(送料4銭)、45日分1円(送料6銭)也。重症者は45日分を続けて服用すると、「身体強壮ニナリ脳力ヲ強メ記臆力ヲ増進スルベシ」「詳細効能書ハ薬品ニ添テアリ熟読セラレヨ」とのこと。

記憶術の流行に便乗した、新手の薬剤販売法と見た。

附録の『記臆反面 新竒忘却法』については、また後日。

追記―山岸利策について 2012年3月19日

この記事をご覧になった方より、山岸利策に関する情報をいただいた。(コメント欄参照)
宮武外骨の『滑稽新聞』に「詐欺広告雑記」というコーナーがある。第60号(明治36年11月10日発行)では博文館の雑誌『文藝倶楽部』所載の広告を列挙してあげつらっているのだが、そこに山岸利策について以下の記述がある。(2つ目の▲)

長江商店については、以下。

ともに「度々掲げた通り」とあるのは、それ以前にも寳順堂=長江商店(=山岸利策)が同欄で話題になっていたからである。
例えば寳順堂は、第39号(明治35年12月5日号)に、電話番号を信用の証に悪用する「淫薬淫具売りの詐欺広告屋」として登場している。
長江商店は第53号(明治36年7月20日号)で、諸新聞に掲載された実際の広告が以下のように例示され、大いに叩かれていた。

例の記憶増進薬でひと儲けして気が大きくなったのだろうか。それとも失敗して自暴自棄に陥ってしまったのだろうか。数年後にはこんな商売にまで手を染めていたのだった。