ブレーンドンク要塞

1月4日、ブリュッセルアントワープの中間、ウィッレブルークにあるブレーンドンク要塞を訪れたのだった。19世紀中頃から20世紀はじめにかけてアントワープ防衛のために築かれた要塞群の一つで、ブレーンドンクは1909年着工。先の大戦ナチス・ドイツ強制収容所として使用されたことにより、現在は国の記念施設になっている。*1

強制収容所などという、正月休暇を過すにあまりふさわしくなさそうな場所へ誘ったのは、ゼーバルトの『アウステルリッツ』に他ならない。アントワープを歩いた前日の晩、急に思い立ったのだが、何の思い入れもない妻からはあっさり同行を拒否された。

アウステルリッツ』の語り手は、アントワープからメヘレンへ出て、そこからバスで(2度目は歩いて!)、要塞へ向かっていた。われわれの宿はブリュッセルにある。Googleマップで検索してみると、宿に近いバス停にとまる260番の路線バスがウィッレブルークを通るようだ。たいした距離でもないのに1時間半くらいかかる。だがまあ乗り換えなしでのんびりできるからいいか、と早起きしてひとりバスに乗りこんだ。

バスは地元民の足という感じで、「次はどこどこ」といったアナウンスや表示が一切ない。郊外の田園風景や住宅地のなかを黙々と進んでいく。乗客も、目的のバス停が近づくとボタンを押して、黙々と降りていく。

極東の島国からやってきた旅行者には、今どこをどう走っていて、次のバス停がいつ現れるのか皆目わからない。のんびりするどころか、車窓風景とiPhoneGoogleマップをしきりに見比べながら、なんとか要塞近くのバス停で降りることができたのだった。

要塞についたのは9時過ぎのこと。門はまだ閉まっていた。門のプレート曰く、「止まれ! これより先へ進む者は射殺!」

9時半の開館までぶらぶらしながら要塞を眺める。

村はずれの野原のまんなかに、土塁と鉄条網と幅の広い水濠に囲まれた広さ十ヘクタールの要塞が、海に浮かぶ小島さながらに広がっていた。*2

雨が降ったあとだったので足下がひどくぬかるんでいる。そろりそろりと歩んでいたら、草むらから野兎が飛び出していった。

しばらくして門前に戻ってみると開いていたので、チケットを買って水濠へ近づいていく。

私の脳裏には厳密な幾何学的図式にのっとって城壁の高くそびえる星形稜堡の姿が描かれていたのだったが、このとき眼前に現れたのは、背の低い、外縁の角をことごとく丸められたコンクリートの塊であって、悪寒を起こすようなずんぐりむっくりの白茶けた代物であった。化け物のだだっ広い背中だ、と私は思った。鯨が海原からぬうと現れるように、化け物がフランドルの大地から背中を剥きだしている。*3

途中に建つ小屋の壁面に、要塞時代と収容所時代の航空写真が並べて掲示されていた。収容所は横から見るとずんぐりむっくりの鯨のようだが、全体としては蟹のような姿をしている。

異様に伸びた四肢とハサミといい、主翼の前面に眼のごとく飛び出した半円形の塁壁といい、ずんぐりした後ろ半身といい、合理的な構造が明瞭になってからも、私にはなにやら蟹めいた生き物の図解としか思われず、人間の理性で設計された建築物とはどうにも信じられなかったのである。*4

水濠にかかる橋を渡った先で、化け物が黒い口をあんぐり空けている。マフラーをギュッと締め直して、その体内へと入っていく。

ブレーンドンクはユダヤ人や政治犯レジスタンスのメンバーを他の収容所へ移送するために拘留しておく施設だった。ここで絶滅収容所のような大量虐殺が行なわれたわけではないが、強制労働と拷問と処刑の現場だったことに変わりはない。『アウステルリッツ』で読み、見たことのあるものが、暗がりのなかから次々目の前に現れる。

親衛隊のカジノ

収容棟の廊下

三段ベッドの麦藁をつめた布団

強制労働に使われた手押し車

拷問室として使われた装甲室

ここでどんな拷問が行なわれたかは、ジャン・アメリーが『罪と罰の彼岸』で自らの体験を詳しく描写している。ゼーバルトは『アウステルリッツ』やジャン・アメリー論「夜鳥の眼で」のなかでその言葉を引いているが、ここにも書き写しておこう。

その部屋には円天井から、上に滑車のついた鎖がぶら下がっていた。鎖の下の端には頑丈な弓型の鉤がついていた。私はうしろ手に縛られたまま鎖の前につれていかれた。鉤がうしろ手の縛り目に掛けられ、鎖で床から一メートルの高さに宙づりにされた。そのような宙づりにあっては全身の筋肉を緊張させて前傾の姿勢を保ったとしても、ほんのしばらくのことだ。そのわずかな間に全力をつかいはたして額や口もとに汗がふき出し、息が切れているというのに、仲間は? 隠れ家は? 連絡の時間は? などの尋問に答えるなど、どだい無理な話である。ほとんど聞きとれもしないのだった。ねじ上げられた肉体の部分、つまり肩の関節が燃え立つようで、すでに力は尽きている。とびきり頑健な肉体の持主でもそうながくは我慢できまい。私の場合、かなり早々とそうだった。両肩が割れ、はじけたかのようだった。あの感覚は今なお忘れない。フライパンから球がとび出すように両肩が脱臼して私は虚空に落ちた。肩からもがれたうしろ手でぶら下がり、その手が頭上でねじくれていた。拷問(トルトウーア)はラテン語の「脱臼させる(トルクエレ)」に由来する。なんという言語的明察だろう! かてて加えて全身に革の鞭が降ってきた。その日、一九四三年七月二十三日、私が身につけていた夏ズボンが裂けた。*5

独房

房室の壁には十字架とキリストの肖像が刻まれていた。

部屋や設備、さまざまな遺物から抑圧と暴力の記憶がこだまして、息苦しい。ユダヤ人用バラックの前を過ぎ外へ出る。

ここへきてはじめて化け物のその異様な外殻を間近で見ることができた。





つぶれた腫れ物の痕じみたあちこちの箇所から砂利がむきだしになり、糞化石(グアノ)もどきの風化した粒々と、石灰と縞模様に表面を被われている要塞は、まさしく醜悪さと見境ない暴力をこれ以上ないまでに具現した石の怪物であった。*6

灰色の憂鬱をしこたまぶらさげて要塞を出る。時刻は昼になろうとしていたが、そのままブリュッセルへは戻らず、メヘレン行きのバスに乗った。メヘレンの街では、広場や大聖堂を巡り、ダイル川の遊歩道を散策したのだが、要塞からぶらさげてきたものはなかなか離れていってくれず、いつまでも歩みを重くさせるのだった。


空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

*1:公式HP:http://www.breendonk.be

*2:W・G・ゼーバルト『改訳 アウステルリッツ』鈴木仁子訳、白水社、2012年、19頁

*3:上掲書、19-20頁

*4:上掲書、20頁

*5:ジャン・アメリー『罪と罰の彼岸』池内紀訳、法政大学出版局1984年、63-64頁

*6:ゼーバルト、前掲書、20頁