『木苺』と『希臘十字』の会
昭和8年の今日、9月25日夜、高祖保『希臘十字』と山本信雄『木苺』の合同出版記念会が開かれたのだった。
『希臘十字』は8月25日に、『木苺』は9月1日に、椎の木社から刊行されたばかり。ともに第一詩集だった。*1
会場は、銀座明治製菓売店3階。同年2月に新装開店したモダンなビルディングで、売店のほか喫茶店や集会室も備えていた。この会以外にも「椎の木座談会」の会場に使われたりしているので、どうやら同人御用達だったようだ。銀座明治製菓売店のあった一画はいま、松屋銀座にとりこまれている。
写真は、在りし日の銀座明治製菓売店。*2
参加者は、主賓二人のほか、阪本越郎、乾直恵、江間章子、楠田一郎、饒正太郎、片岡敏、山本清一、高荷圭雄、阿部保、山本酉之助、百田宗治、青柳瑞穂、田中冬二、村野四郎、大久保洋ら17名。下は第三次『椎の木』第2年11冊(昭和8年11月)に掲載された開催報告。
伊藤信吉によると、山本信雄は大阪の相当裕福な家の生まれで、百田宗治が大阪で開いていた「詩の塾」に出入りしていた。*3 金沢一中時代は、同地の詩誌『翁行燈』(大正13年12月-昭和3年1月)の同人だった。竹中郁によると、卒業後は慶応に進んだが病を得て帰阪したという。*4 岩佐東一郎によると、大阪では「K銀行」に勤めていた。*5
高祖保は昭和2年に石川の詩人・室木豊春が主宰する詩誌『掌』(後に『てのひら』、大正15年8月-昭和3年1月)の同人になっており、石川詩壇に関係したこともあって、当時から山本信雄には注目していた。第三次『椎の木』第2年9冊(昭和8年9月)所収の「青い花を翳す…………」で高祖は、「山本信雄の存在は極めて私に懐古的な感情を輿へる。」と書いている。
この会で高祖は田中冬二と初めて対面し*6、以後親交を深めてゆくのだった。
上掲の開催報告によると、この合同出版記念会は「椎の木」同人の山本信雄と山村酉之助が大阪から上京してくることになったため急遽開催される運びとなったようだが、合同という形は偶然ではなかったようだ。というのは、『木苺』と『希臘十字』は、『椎の木』誌上ではまるで双子詩集のように扱われていたから。第2年7冊(昭和8年7月)から11冊(昭和8年11月)まで、このふたつの詩集は必ず並べて広告されていた。第2年11冊(昭和8年11月)は、諸家から寄せられた『木苺』と『希臘十字』の評をまとめて掲載している。
少しく抜き書きしておこうか。
『希臘十字』評
概して言へば、華麗な希臘的なイメーヂと幽かな静觀的なイメーヂとの混合、といふよりも静觀的な觀念が希臘的な明るい形式と新しい逆説の形式とでカモフラーヂしてゐるといつた方が正しいでせう。
実際、『希臘十字』は甲殻類のやうに、生純でどちらかといへば陰氣な軟體が、嚴しくて硬い甲羅を脊負つてゐるやうです。そしてそれが居る時間と世界によつて、脊中の模様や色彩を變へます。一つの僞體と其のまどわし。その上に現れる幻想の虹の美しさ。
村野四郎「『希臘十字』への書翰」より
この樂園を無事に通過し得るものが幾人あるだらうか。私はこの天空を三度通過した。最初はその藏書癖に驚歎し、次いでその天成的な批評精神を見、最後にそれらの基準をなす感性の落ちつきを感じた。
内田忠「古典島回顧—高祖保觀」より
静謐の中の氣韻。〈希臘十字〉の書名は、それ自身高祖君のプロフイルに外ならない。立派に完成されたスタイル、Kalokagathia等の作品は全く明日の詩壇を教示してゐる。そこで僕の注言は高祖君の理智のテレスコオプがあまりに冴え過ぎてゐることにある。
井上多喜三郎「『希臘十字』の高祖君」より
百田君の装幀もここに至つては全く堂に入りしものと近頃感服いたし候。唯惜しむらくは針がねとぢでなければ猶よろしくそのうへ慾を申上候へば天をもう七分位きり下を五分位きり候はば型のうへにて更に好ましく感ぜられ申候。(中略)此の書は名の如く實に近頃小生にとつてはうれしく拜讀いたされ申候。その高貴なる詩的雰圍氣のかほりのゆたかさは近頃の詩集に於いてはむしろ珍らしきものと被存候。
長谷川巳之吉「著者への尺牘」より
近頃私が讀みました中で、いや日本でも有數の詩集だらうと實は讀後久しぶりでうれしい昂奮を感じた次第でございます。正直に申上げますと御高著は私の藝術と所謂「同文系」の匂濃く私本當は少々、いや大分嫉妬を感じた程です。
城左門「著者への尺牘」より
大層綺麗な御本で私もなんだか拜見してゐるうちに自分でも一冊出して見たいやうな心持ちになりました。さうしてもつと新しい詩を勉強して新しい詩がよく判るやうになりたいと存じました。
吉村鐵太郎「著者への尺牘」より
『木苺』評
この詩集は、侘しさ、傷心と云つたやうな内氣な日本の美しき感情を多く有してゐる。
(中略)
青いやさしいへりとりの頁の一枚一枚は果物皿のやうだ。
この詩人の語彙は水々しい葡萄の粒のやうにそろつてゐる。
これは決して容易のことではない。
この詩人の清冷性(セレニテ)である
田中冬二「Raspberry Soda water」より
山本君のやうな稟質の人では、私はその少年時代のおどおどした繊細さが好きである。それが驚異や歡喜、悲哀となつて平板な景色のなかからでも私らに手を伸ばす。
竹中郁「木苺 その他」より
近頃の若い人々の作品に見る衒氣、翻譯的口調や思想、形式論などが微塵も窺はれないといふことは私にとつてむしろ意外なほどの大きな喜びでありました。しかもこの間色的な平易さと明るさと慰安、これこそは正しく私の求める近代人の魂の所産だと私は高調して止まないものです。
深尾須磨子「『木苺』の著者に」
次号の第2年12冊(昭和8年12月)には、山本酉之助が「『木苺』と『希臘十字』」を寄せ、「今後に於ける二君のトラヴアイユは私達の期待以上のものとなつて、私達をして顔色なからしめるであらう。」とエールを送った。なおこの号の後記には、2冊とも売切れ、残部なしと記されている。『木苺』は120部、『希臘十字』は70部の刊行だった。
さて、この2冊は椎の木社の本ということで、百田宗治が装幀を手がけている。2冊を比べてみると、それぞれの詩風を意識しながら、対となるべく造本がなされているように感じる。
「静觀的な觀念が希臘的な明るい形式と新しい逆説の形式とでカモフラーヂしてゐる」(村野四郎)『希臘十字』は、血のような赤を基調とし、「理智のテレスコオプ」(井上多喜三郎)を思わせる縦長の判型*7。表紙に騎士像を配す。
本文の囲み罫には右まんじ(卐)があしらわれている。まんじは太陽や光のシンボルであり、キリスト教世界においては十字架より古い宗教的シンボルだった。*8
一方、「内氣な日本の美しき感情」(田中冬二)や「間色的な平易さと明るさと慰安」(深尾須磨子)を湛えた『木苺』は、淡い緑を基調とする桝形本。
表紙の紗綾形がはらむ卍は『希臘十字』の囲み罫に通じる。
扉の前におかれた挿絵に西洋の楽士(?)が。これも『希臘十字』の騎士と対をなすように思われる。
『木苺』でも本文に囲み罫「青いやさしいへりとり」(田中冬二)が使われている。上掲の評で田中冬二はこれを見て「果物皿のやうだ」と形容したのだった。
わが家の『木苺』は、今年6月の終わりに石神井書林の目録より入手したもの。
今宵、80有余年ぶりに、たったひとりの“『木苺』と『希臘十字』の会”を催すこととしよう。
*1:森開社・小野夕馥氏のブログ〈螺旋の器〉の記事「山本信雄と百田宗治」(2009年11月3日)によると、山本は大正13年11月に『叙情小曲集』という謄写版の詩集を私家版35部限定で出しているので、厳密には第2詩集である。
*2:『明治製糖株式会社三十年史』明治製糖株式会社東京事務所、昭和11年
*3:伊藤信吉『金沢の詩人たち』ベップ出版、1988年、47頁
*4:竹中郁「木苺 その他」第三次『椎の木』第2年11冊、昭和8年11月 所収
*5:岩佐東一郎「『春燕集』の人」『書痴半代記』ウェッジ文庫、2009年、166頁
*6:和田利夫『郷愁の詩人 田中冬二』筑摩書房、1991年、214頁
*7:椎の木社の文芸誌『尺牘』と同じ判型
保忌
すでにあなたはいない
私の手にのこったのは
瀟洒な詩集「雪」
書翰一束
すでにあなたはいない
貴公子然とした風貌の主
典雅きわまりなき教養の主
すでにあなたはいない
天性の詩人
温情の君子
若き詩徒の慈父
すでにあなたはいない
――古風な温泉宿
ひぐらしの聲
マダム・シゴオニュの扇――
すでにあなたはいない
端然机に坐して合掌する
ああ 師 高祖保
長田和雄「ああ 師 高祖保」(『詩集 相貌』三友社、1950年)
※『詩集 相貌』は長田氏の処女詩集。「あとがき」によると、著者はかつて文藝雑誌に詩を投稿していた文学少年で、早大入学後、高祖保に親炙し田園調布の自宅にも足しげく通ったという。学徒出陣を経て復員後、高祖の戦病死を知り激しいショックを受ける。詩と訣別することでその苦痛から逃れようとしたがままならず、「詩の鬼にこづかれながら、はてなき道をさまよっている」。本書冒頭に「師 高祖保の霊に捧ぐ」と献辞。上掲「ああ 師 高祖保」は序詩として巻頭を飾っている。
高祖保没後70年に
2015年は、戦後70年にして詩人・高祖保没後70年という、記念すべき年であった。(高祖は1945年1月8日ビルマにて戦病死)
詩人に関する今年の主なイベントをまとめておく。
『高祖保集 詩歌句篇』の出版
書簡集・評伝・随筆集と、出版により詩人の顕彰を続けてこられた金沢の龜鳴屋より、ついに詩歌句集が上梓された。
編者は高祖保研究の第一人者・外村彰先生(呉工業高等専門学校教授)なので、現在一般に入手できる高祖の詩作品のなかでは、最も信頼できるテクストとなっている。作中の特殊な旧字まで再現するという凝りよう。
詩人の死により未刊詩集となった『独楽』については、従来の岩谷書店版や現代詩文庫版の選集所収のものとは異なり、残された定稿からの復元版である。生前の詩人の意図が可能な限り反映された形で現代に甦った。
また、詩のみならず短歌や俳句も数多く収録されており、高祖保のポエジイを俯瞰できる一冊となっている。
一般の書店には並ばないが、版元から直接購入できる。高祖保の作品に興味を持ったら、まず本書を入手すべし。
龜鳴屋HP http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/
記念講演会(9月13日)
高祖保生誕の地・牛窓に近い瀬戸内市中央公民館にて、外村彰先生による講演会が開催された。
講演の前には、高祖が作詞した童謡「蜜柑の実」、および高祖の詩から合唱曲に仕立てられた「ふらここ」の演奏が、西大寺混声合唱団により披露された。
また会場には、高祖保が愛用した品々(ペン立て・インク壺・ペーパーナイフ・灰皿)や自筆原稿、金沢入営時代の日誌も展示された。
当日は詩人のご長男・宮部修氏も来場されており、私などはお会いできて感無量であった。
講演会の録画が公開されている。高祖保について興味を持ったら、まずこちらを視聴すべし。
「蜜柑の実」ふたたび
高祖保が作詞した童謡「蜜柑の実」(作曲・橋本国彦)は、昭和19年11月28日の昼に一度放送されたきりで、NHKにも音源は残っていない。
牛窓の私設資料館「なかなか庵」を拠点に高祖の顕彰活動を続けておられる清須浩光さんは、残された楽譜と歌詞を手掛かりに、自ら団長を務める西大寺混声合唱団の歌声で現代に甦らせておられる。(上記録画でも聴ける。牛窓および「なかなか庵」訪問記は、こちら)
だが今年、オリジナルの放送の記憶を受け継ぐ方が現れたという情報を、清須さんからいただいた。
12月13日放送のNHK「小さな旅」*1に出演されたその女性は、蜜柑の一房々々を家族に喩えたこの歌を、戦中母上がよく泣きながら口ずさんでいたのを聴いて今でも覚えておられた。戦中の思い出とともに歌われたそのメロディーは、清須さんの合唱団が楽譜をもとに再現されたバージョンとほとんど変わらないものだった。
戦争の記憶とともに高祖の歌が人の心に生き続けてきたことには複雑なものを覚える。ともあれ、NHKから再びこのようなかたちで放送されたのは奇跡的で、感慨深い。
戦後70年、高祖保没後70年の掉尾を飾る出来事だった。
2015年の10冊
古書の10冊
※すべて詩集。
中川いつじ『天えの道』私家版、1948年
兵隊で死にそこねた私は、たゞ呆んやりと帰つてきた。敗戦国のみじめさは兵隊で苦労した御蔭で父母ほどには感じなかつたが、口に糊するための人との交際ほどいやなものはない。こんな空しさを詩によつて埋める事を覚えた。こんなとき「ラ」のおつさんを知つた、オアシスのように。そうして「ラリルレロ」えよることで一層詩を愛することができるようになつた。
(「あとがき」より)
※「ラ」のおっさんとは、長浜の詩人・武田豊のこと。「ラリルレロ」は武田が営んでいた古本屋。
丹野正『雨は両頬に』編集工房しぶや、1979年
雨だれの音階とそれがつくる水たまりが
わたしの外国であった日がある
すこしおとなになってからは
雨がさのしたにいることがすでに恋であった(「外国」より)
高祖保の金沢 後篇
昨年8月4日、金沢滞在の最終日、陸上自衛隊金沢駐屯地を見学した。
ここはかつて、陸軍・金沢山砲兵第九聯隊の衛戍地だった。高祖保が、昭和5年12月1日から昭和6年11月30日まで幹部候補生として軍隊生活をおくった地である。
当時の地図によると、隣接して工兵第九大隊、その隣に輜重兵第九大隊、兵器庫と続き、道を挟んで騎兵第九聯隊と野村練兵場があった。
これらの跡地は現在、公務員宿舎や県営住宅、金沢大学附属校の校地などになり、一帯は「平和町」と名を改められている。
地図
高祖の生誕地・牛窓の私設史料館「なかなか庵」で、金沢時代に撮られた彼の軍装写真を見たことがある。軍帽の鍔の下で、どこか不安げな表情を浮かべていたのが印象深い。入営前、高祖は短歌誌『香蘭』で、同好の士たちに向けてこんな挨拶をしていた。
いよ/\あと一回の原稿をかけば砂をかむやうな軍隊生活が控へて居り今月の雑ぱくなる小話の結末と手入れとであと姑く香蘭を失礼さして頂きますがよろしくお願い申し上げます。
『香蘭』8巻12号(昭和5年12月)附録「灰皿」消息欄
歌詠む日々からの境遇の変化は大きい。入営まもないころの心懐を、彼はこう詠んでいる。
入営にあたままるめつ鏡面(かがみ)にはわれらしからぬがうつりてゐるを
『香蘭』9巻2号(昭和6年2月)
金沢駐屯地を訪れたのは、旧軍時代の建物が残されているからだった。丸刈り頭の詩人を知る遺構!
広報係の隊員に引率されながら、詩人の幻影を求む。遠い目をして旧軍の質問ばかりする見学者に、若い隊員さん終始困惑ぎみ。
駐屯地の入口付近に、旧軍の厩舎だったという建物がある。
現在は倉庫として使われているそうだ。すぐそばで展示されている自衛隊のヘリには目もくれず、古びた木造の倉庫ばかりを見つめている。と、向こうから軍服姿の詩人が馬を曳いてやってきた。野外演習の帰りだろうか。歌が、きこえる。
へうへうと竹葉のさやぎそらに散り薄暑のみちをわが馬とゐる(伝令演習)
わが馬に竹のおちばのふきよりて閑かとなりぬわれのこころも
『香蘭』9巻8号(昭和6年8月)
ひかりのなか馬を御しゐる営庭の昼しづかなりいさらゐの汗
『香蘭』10巻1号(昭和7年1月)
駐屯地の奥には、将校の集会所だったという建物が残されている。現在は資料館「尚古館」になっている。詩人もここの敷居をまたぐことがあっただろうか。
内部は、半分が自衛隊に関する資料の展示室、もう半分が旧軍の装備品などの展示室となっている。軍服・軍旗・武器・弾薬…これまで何の接点もなかった品々に囲まれる日々に、詩人は何を想っただろう。歌が、きこえる。
居りわびてこもりけながくなりたればおもひぞ散りてまとまらなくに
『香蘭』9巻8号(昭和6年8月)
あるときはおもひのはてに居るわれにひそかに雨のふりゐたりけり
『香蘭』9巻11号(昭和6年11月)
在営中も高祖は『香蘭』に短歌を送りつづけたが、詩は一つしか発表していない。おそらく、慣れない軍隊生活で上の歌に詠まれたような精神状態だったため、折々の感興をなんとか三十一文字に収めることはできても、詩にまで拡げるのは難しかったのだろう。だが、“MOUNTAIN ARTILLERY”(「山砲兵」の意)と題するその詩は、同時期に書かれた簡素な短歌群に比して外語や幻想的イメージが多用されており、後年処女詩集『希臘十字』(昭和8年)に結実する世界を予感させるものだった。
MOUNTAIN ARTILLERY
白い曙だ。
あれは何だ。ひえびえと営庭から虹が立つてゐる。
・
『営舎』――それは凡らゆるグルウミイなる物体の堆積(マツス)。――ある言葉で言へばそれは「古い伝統をなにの懐疑もなく表情している門」。
・
わたしは暁闇の営庭に、赤い日本茶で洗面する。
迅(はや)い夜あけだ。昇登する太陽。
たちまち朝の暴風が、みづみづしい青葉の洪水をぶち撒ける。
角膜いつぱいの青色パノラマ。
甃石道のうへで、わたしは仰ぐ。
仰いでそれら夏の旺んなる樹々をみる。
・
ヒマラヤ羊歯。
アラビア銀杏。三角松。山毛欅(ぶな)。
それらの下に叢生するもの。
香(かぐ)はしい歓木のむれ。シネラリア。
ああ!
ああそれらは盛りあがるシヤンペンの泡よりも涼しいのだ。
さしあげられた千万本の「生ける掌」の奇蹟と言へるか。
それらは季節を先駆する神のグリンプスなのだ。
・
わたしは末枯(おちぶ)れた狐狸のやうに、
一瞬の「空間」を墜ちる――
さつと扇のやうに、ひろがつてゆく「朝」のなかで。
わたしはみた。
かれらの二人舞(ワルツ)。
かれらの円舞(ロンド)。
(七月十四日つくる)『香蘭』9巻8号(昭和6年8月)
「グルウミイ」=陰鬱な境遇からも、なんとかして神秘を垣間見ようと踠いていた様子が彷彿される。高祖はその低調な生活の軌跡を、退営後すぐに「軍隊手帖」という詩にまとめた。
軍隊手帖
その朝
聯隊区司令官からの令状がとどいた。
十二月一日〈MOUNTAIN ARTILLERY〉ニ入営ヲ命ズ
そこに夜がひそんでゐた。年老いた母よ。そとに誰かが立つてゐる。わたしのよごれたナプキンがひき裂かれて、木煉瓦と氷花のあひだで、落花の白さで、きりきりと引き摺られた。わたしはじぶんからとほいところにゐるわたしをはじめて識つた。
聯隊命令
〈A. CORPORAL〉ノ階級ニススム AUG. 1931
わたしは疲れてる。さう、わたしの髪は氷よりはるかに冷たくなつた。わたしの首はるいるいと縫針よりも痩せた。わたしの頬はせうせうとこけて落ちた。いまや蓬髪垢面だ。それは愛琿の陸稲(おかぼ)畑よりもひどい。見ろ、奥まつたその瞳。それはハイラルの河よりもふかい。………
聯隊命令
〈A. SERGENT〉ノ階級ニススム OCT. 1931
しきりにわたしは歯をみがくだらう。わたしは不幸な東洋人のたれもがもつてゐる黄色の「歯漿」を恐れるからだ。苦渋な八千六百四十時間が、涯しもない空間の意識をわたしのうへに組みあはせた。そしてしきりにみがかれてゆく歯といふ歯。歯はますます繊かく、もつぱら痩せた。しろくさいざいと浅はかなひかりを放つまでに。歯の空隙を流れる白体の液は、暁闇のなかで滾れおちるとき、ひとつひとつ菊の花になつた。粉はそれでもへうへうと、雪のやうに散じて放虚な空に沈んだ。
最後の聯隊命令
そのうへに大きな「X」――
閑かにわたしの現実の表面が傾斜しはじめた。年老いた母よ。わたしははじめて膨らまない精神の凝集を識つた。昨日とあすの現実のあひだで、大きく歪められ迂回した軌道をどうするか。はげしいゆきどころのない感情の転移のなかに、強靭なスケルツオをたたき込みながら、泣きながら、わたしは叫んだ。
《今こそ缶詰を出るのだ!》
その朝
聯隊区司令官からの令状がとどいた。
十一月三十日〈MOUNTAIN ARTILLERY〉ヨリ退営ヲ命ズ
第3次『椎の木』第1冊(昭和7年1月)
それから10年を経て、日本は社会全体が憂鬱なる営舎のごときものとなり、高祖保の詩人としての軌道は再び「大きく歪められ迂回」していく。
昭和19年、高祖は再度軍隊という「缶詰」に入れられ、ビルマへ送られる。戦地でも常に詩を書いていたらしいが、それらは永遠に失われてしまった。*1 ほんとうの戦場でも、高祖は神秘を垣間見ることができただろうか。今となっては知る由もない。
*1:外村彰 『念ふ鳥 詩人高祖保』龜鳴屋、2009年、354-358頁