明治の記憶術書を読む その2

  • 望月誠 『記憶拡充論』 思誠堂、明治12年7月

本文63頁、定価25銭也。本書は明治期初の記憶術書と思われる。(明治記憶術ライブラリー参照)
国立国会図書館近代デジタルライブラリーからPDFで落として読む。

著者について

望月誠については、石塚純一「うさぎ屋誠」考―明治初期のある出版人をめぐって」(『比較文化論叢 札幌大学文化学部紀要』第5号、2000年、27-66頁)に詳しい。信州の武士の生まれで、明治8年から10年にかけて内務省で翻訳業務に従事したのち、銀座で「兎屋」という出版社を興した人物である。兎屋のほかに、「うさぎや誠」「思誠堂」などの屋号も併用している。後者は本書『記憶拡充論』の版元である。
手がけた出版物は主に、家庭向け実用書や商売論、実録、戯作、翻訳もの。上記論考の最後に付されている出版年譜を見ると、『女房の心得』『商人安心論』『里見八犬伝』『美少年録』等々、通俗読み物がほとんどである。「通俗なんとか」というタイトルも目につく。『記憶拡充論』は、そんなラインナップ中の1冊なのである。ちなみに望月の兎屋は、誇大広告と大胆な値引き販売、景品付き販売等で話題をあつめ、明治10年代後半には最も羽振りのよい出版社の一つになったが、二十年代半ばごろにぱったり活動をやめてしまったという。

典拠について

岩井洋 『記憶術のススメ―近代日本と立身出世』(青弓社、1997年)によると、『記憶拡充論』の例言には以下の断りがあるという。

本論中多くは米人アイサック、ウワツト氏の説に係れば事情自ら我が国と異なる所あらん看官之を了せよ

典拠に関する重要な情報なのだが、今回読んだ近代デジタルライブラリーの画像版には例言なるものが見当たらない。岩井氏も国立国会図書館所蔵本を参照しているので、同じものを見ているはずなのに。デジタル化の過程で抜け落ちてしまったのだろうか。
「米人アイサック、ウワツト氏」を手がかりに典拠を探してみると、
Isaac Watts, Improvement of the Mind or, a Supplement of the Art of Logic, London, 1741.
なる本に行き着いた。その第17章 Of Improving the Memory が、あやしい。『記憶拡充論』と比べると…に、似ている。以下、本文の出だし。

Memory is a distinct faculty of the mind of man, very different from perception, judgement, and reasoning, and its other powers.

記臆トハ脳中ノ知会力、審決力、理論力及ビ自余ノ能力ト全ク異ニシテ

つまり、『記憶拡充論』は、この章の翻訳だったのだ(完全なる逐語訳ではないようだが)。
著者Isaac Wattsは英国の聖職者で賛美歌作者なのだが、Improvement of the Mindは19世紀に米国でも版を重ねている。望月は、米国版を見てその著者を「米人」と勘違いしたのだろう。

記憶拡充法

記憶および記憶力の特性やら重要性やらがくどくど論じられたあと、後半になってようやく記憶術らしきものがまとめて現れる。望月のオリジナルではないが、記憶拡充のための10ヶ条を以下に掲げておく。
第一条 若シ吾人ニシテ其記臆ニ供スル所ノ事物ヲ学ビ知ラント欲セバ須ラク能ク適宜ノ注念用意ヲ為サザルベカラズ
第二条 吾人ニシテ事物ヲ永久ニ記臆センニハ必ズ之ヲ明弁融会セザルベカラズ
第三条 吾人記臆スルトコロノ事物ヲ深ク心中ニ蔵メ之ヲシテ久遠ニ洗磨セシメザランニハ宜シク之ガ規則方法ヲ設クベシ
第四条 吾人ノ学ビ知ラント欲スルノ事物ニシテ深ク之ヲ心中ニ蔵メ遠ク記臆ヲ保タンニハ宜シク屢次検察再言シテ脳中ニ収略スベシ
第五条 人共学ブトコロノ事物ヲ以テ快楽ナリト思惟スルハ大ニ其記臆ヲ扶助スルモノナリ
第六条 切要ナル事物ヲ詩中ニ編入スル
第七条 吾人ガ日新ノ事物ヲ能ク記臆シ得ル者ハ其始ニ当リテ之ヲ観聴シ或ハ学ビタル時期居所等ノ事情ヲ収メテ之ヲ想像ニ合同スレバナリ又遺忘シタル思想ヲ快復セント欲セバ一ニ時期居所等ノ事情ヲ想起スルヲ以テ切要ナリトス
第八条 吾人書ヲ読ミテ其語句ヲ記臆セント欲セバ其読ミ了リタル部分ノ右側左側上方中央下方及ビ章句ノ終始ヲ問ハズ宜シク努メテ其書記印刷セシ所ノ位次ヲ認メ以テ之ヲ記臆スベシ
第九条 吾人ガ記臆セント欲スル各般ノ事物ハ其始ニ当リテ明白ニ大書シ次テ又之ヲ節分スベシ 慄弱ナル記臆ヲ補助センニハ毎節毎葉ノ初頭ニ於ル文字或ハ言語ヲ書記スルニ当リテ黄緑赤黒等ノ如キ各般ノ色ヲ以テ之ヲ分別スベシ 又記臆ヲ補助スルノ一法ハ各科ノ学問ノ目的ヲ図式或ハ計表ニ示スニ在リ
第十条 物名及ビ文章ノ初頭ニ於ル文字ヲ取リテ一ノ新語ヲ綴リ以テ之ヲ記臆ノ一助トナス

旧蔵者の書き込みについて

国立国会図書館所蔵本には、旧蔵者による線引き・書き込みが残されている。本書の読者がどこに興味を示したかが分かって、おもしろい。
例えば、19頁「記臆ノ拡充ヲ成スニ於テ欠クベカラザル所ノ者ハ爾時最モ」に続く文章「直接ノ目的ニ注意シ及ビ其心志ヲ専一ナラシムルノ習慣ヲ養成スルニアリ」には波線が引かれ、その上の欄外に「快論」と書き込まれている。43頁、教えを受けたすぐあとに事務をしたり快楽に向かってはいかん、学んだことは時々想起せよ、と説かれている箇所の欄外には「賛成」と書き込まれている。そして巻末には次のような書き込みがある。

此本ハ論理上ノ事ノミヲ記セシモノニシテ生理健全上ニ係ルモノ甚ダ少キ故記憶拡充ニ志アルモノハ他書ニ就キ生理健全上ヨリノ諸説ヲ見(判読できず)バ大ニ益スルトコロアルベシ
楽善堂主人放膽 識

先の石塚氏の論考によれば、この楽善堂主人とは、明治のジャーナリストで後に「楽善堂」の売薬業で成功した岸田吟香のことである。岸田劉生は息子。
ちなみに岸田吟香は、今日の筑波大学付属視覚特別支援学校の前身、「楽善会訓盲院」創設者の1人でもある。


※ その1は、こちら