長谷川潾二郎のまなざし、洲之内徹のまなざし

長谷川潾二郎展」(@平塚市美術館)に行く。

片方しかない髭のエピソードで有名な「猫」、洲之内徹が神田の古道具屋から2000円で買ったという「バラ」、その洲之内が最高作と評した「時計のある門(東京麻布天文台)」などの代表作を含む124点を展示。ほか、「地味井平造」名義で発表した小説「煙突奇談」・「魔」の掲載誌や、「猫」のモデルとなった愛猫タローの「履歴書」、装画・口絵の原画、アトリエでのポートレートといった資料もあり、長谷川潾二郎の全貌を伝える内容となっている。

また同展では、潾二郎の日記や遺稿からの抜粋をパネルにしていくつか掲げている(図録にも収録)。洲之内徹の『絵のなかの散歩』や「気まぐれ美術館」シリーズの愛読者にとっては、そのなかの「洲之内徹氏の文章「長谷川潾二郎」を読んで」というパネルが興味深いだろう。「絵画について」という年代不詳の未定稿からの抜粋である。これが、洲之内の「長谷川潾二郎の「猫」」(『絵のなかの散歩』所収)に応える内容となっているのだ。

彼は「この人はどうしても実物を目の前に据えておかないと絵がかけないのである」と言う。「それはこの人の一種の律儀さ潔癖さだろうか」と言う。
私は彼の言う通り目の前にあるものを描く。しかし、それは実物によって生まれる内部の感動を描くのが目的ですから、実物を描いている、とは言えません。つまり私が描いているのは実物ではありません。
しかし、それは実物なしでは生まれない世界です。
この間の事情は外部の人には一寸判りにくい所があると思います。一番重要なことは、描く前の心の在り方だ。
目前にあるものが美に輝く時、それは神秘の世界から現れた贈物のように見える。洲之内氏が私の画を「この世のものとは思われない趣さえある」と言う時、私の気持ちを他の方向から感知していると思う。私の考えでは、「この世のものとは思われない」のは目前の現実で、目前にある現実が、「この世のものとは思われない」ような美に輝いている事実です。しかしこの事実を信じない人が意外に多いのです。詩の出発点となる現実の姿を見て、そんなつまらないものと言う人が。

図録『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』 求龍堂、2010年、 64頁

洲之内によると、長谷川潾二郎は実物が眼の前にないと描けない、おそろしく遅筆な画家である。洲之内の美術エッセイでは、そんな画家像にまつわるエピソードが面白おかしく語られる。だが今回のこのパネルを読んで作品を見ていくと、それは画家のごく表層的な一面に過ぎなかったことがわかる。洲之内の愛読者にとっては意外な発見となろう。

画家・長谷川潾二郎の名を広く世に知らしめるに与って最も力があったのは、洲之内の美術エッセイだろう。今回の展覧会のポスターに「猫」が使われているのも、洲之内のエッセイで有名になり、潾二郎の代表作と目されるようになったからなのだろう。だが、同展を洲之内の色眼鏡だけで見るのはもったいない。潾二郎と洲之内では、ものの見方が違いすぎるからだ。それは、ふたりの小説家としての資質を比べてみても明らかである。(ふたりとも、はじめは小説で世に出た。)

新潮文庫版『絵のなかの散歩』の解説で、作家の車谷長吉は、洲之内が3度芥川賞候補になって3度とも落選した理由をこう見ている。

本人は大真面目に小説を書いている積もりなのだが、文章が小説になっていないのだ。恐らくは自分の経験したことを、あるいは見聞したことを、事実に忠実に、有りのままに書いているような文章なのである。これではただの作文である。小説とは、たとえ私小説であろうとも、虚実皮膜の間に成立するものであって、して見れば、洲之内の文章は「実」だけがあって「虚」が欠落しているのである。
洲之内徹の狷介」『絵のなかの散歩』 新潮社、1998年、418頁

一方、長谷川潾二郎=地味井平造は、こんなことを書く感性の持ち主なのである。

私は凝結した知識、主義、理性尊重、よりもお爺さんの感性より生まれた伝説を尊敬します。感覚の中からのみ本当の智慧が生まれる。
ですからお爺さんがもしも又奇蹟を見たいならば、それは僕等の周囲で常に発見されるのです。到る所で。世界は無量の謎であり、お伽噺の中にある幾ら経っても減らない打出の小槌なのです。毎日毎日が新らしい奇蹟の啓示です。
「魔」(初出『新青年』昭和2年4月号)『日本探偵小説全集11』東京創元社、1996年、780頁

現実の「実」からものを見ていく洲之内と、現実の裏にある謎や神秘を見ようとする潾二郎。『絵のなかの散歩』片手に、ふたりのまなざしを比べながらまわると、おもしろいだろう。

長谷川〓二郎画文集 静かな奇譚

長谷川〓二郎画文集 静かな奇譚