Enchiridion 16 リチャード・ド・ベリー

リチャード・ド・ベリー 1287-1345

書物の中で、われわれは遠い過去の故人の生きた姿に出会い、また将来を予見する。書物の中で、戦争にかかわる諸事は整理され、また平和の法も書物から生まれる。もし神が書物という救いのすべを被造物に与えなかったなら、万物は時間とともに腐敗し滅亡する。そしてサトゥルヌスは自分の腹を痛めた子を食べ続け、この世のすべての光栄は忘却のうちに葬られてしまったであろう。
世界の支配者アレクサンドロス、その戦術と学問においてたぐいなく、全帝国を自らの支配下に統一したローマと全世界の侵略者ユリウス、忠実なファブリキウス、峻厳なカトー、彼らの記憶も書物に書かれていなければ残らなかったであろう。事実、層塔は倒れ、都市は荒廃し、凱旋門も崩壊しさった。法王、王といえども、その名を千載に伝えるに書物以上のものを見いだすことはできない。プトレマイオスは『アルマゲスト』の序説で、「学問に生命を与えた人は死を味わわない」と言っているが、書物が消滅しないかぎり、その著者は不死身である。・・・聖性高きボエティウスは直き道、終わりを知らない生命である真理を、思考、言語、書物からなるものとみなしているが、書物という形においてこそ真理は最も利用価値が高く、実りも豊かである、といえよう。声の伝える真理は、その意味も音とともに消え、心のうちに秘められた真理は隠れた知恵、不可視の宝であるが、書物のうちに燦然と輝く真理は繊細な感覚が容易に捕えるところである。真理は本を読む人の視覚に、耳でそれを聞く人の聴覚に、そして本を写し、集め、校正し、蓄える人の視覚にその姿を現わす。
秘められた理性的真理は崇高な精神の所有物にちがいないが、視覚や聴覚から孤立し、同士がいないので、喜びにあふれているとは言えない。更に、声で伝えられる真理は、聴覚に捕えられても視覚は捕ええず、物事の本質を表す場合も、それを伝える極微の空気の波動は、動くかと思うとすでに消えている。それと比較して、書物に載っている真理は、変化せず、永続し、だれからもその身を隠さず、全人の見るところである。被浸透的属性を具える眼球から知覚の門、想像力の中庭を通り抜け、知性の奥部屋にはいり、記憶の寝床につき、そこで理性の永遠の真理をはらむ。
最後に書物が施す教育がどんなに有用なものかを考えねばならない。書物はひそかに教えてくれる。書物には何一つ恥じずに、安心して無知の貧困をさらけだせる。書物は棒も笞も持たず、怒りのことばも知らず、着る衣装も金銭もない教師である。会いに行って寝ていることはない。質疑に対し身を隠し、こちらのまちがいに声をあげず、無知を笑わない。
書物のみ気まえよく、自由で、だれにでも求める者には与え、忠実に仕える者を捕われの身から解放する。・・・書物こそは・・・よく実った麦の穂である。
書物はマンナを入れた黄金の壺、蜜の流れる岩、いや、蜜のしたたる蜂の巣、生命の乳の満ちる乳房、常に満たされている穀倉である。書物は人間の理性を養い、渇く知性をうるおす生命の木、楽園の四つの川である。・・・エン・ゲディのぶどう、必ず実を結ぶいちじく、いつでも使える灯ったランプである。
知恵を収める書庫はあらゆる富よりも尊く、他のいかに望ましいものでもこれには比べられない。そこで、真理、幸福、知恵、知識、いや、信仰の熱意を持つと自ら任ずる者は、だれでも愛書家たるべきである。
『フィロビブロン』 第1章・第2章より
〔『フィロビブロン―書物への愛』 古田暁訳、大阪フォルム画廊出版部、昭和47年、19-25頁・34頁。一部表現を変えた。〕


Alexander Ireland (ed.), The Book-Lover's Enchiridion, 5th ed., London, Simpkin, Marshall & Co., 1888, pp.7-9.

※同訳は講談社学術文庫にも入っている(現在品切れ)。