美術は言葉に翻訳できるか

仕事のあと、ミュージアム・アクセス・グループMARの鑑賞ツアーに参加。視覚障害者と晴眼者がペアになって、言葉で美術を鑑賞しようという試み。10年くらい続いていて、私は2度目の参加。今回の参加者は20人弱。
今日は国立新美術館「光 松本陽子/野口里佳」展を見る。
松本氏の作品は抽象画。野口氏は写真。さまざまな質感・距離感を持った光が表現されていて、言葉にするのはなかなか難しい。
「こう、太陽がもやーっと眠い感じで真ん中の手前にあって・・・」とか、「ピンクと白がもくもくーっと一面に立ちこめた感じで・・・」とか、ボキャ貧な説明に終始する。でも自分なりに何とか表現しようと必死になるので、自身の鑑賞も一人で見る時より力がこもる。
閉館前だったので、途中から飛ばし気味になってしまったけれど、個人的にはかなり楽しめた。図録を購入。ペアを組んだ視覚障害の方と妙に気が合ったのは、二人ともたまたま関西出身だったからであって、私の説明がよかったからでは、必ずしもないだろう。
眼で見ることを前提に作られた美術作品を、耳で聞く言葉に翻訳することはどこまで可能なのだろうか。「詩ハ絵ノ如クニ ut pictura poesis」(ホラティウス)、「絵はもの言わぬ詩、詩は語る絵」(シモニデス)という言葉があるように、視覚芸術と文学は通底するという、いわゆる「エクフラーシス(画文一致)」の考え方は古代からあったのだから、美術と言葉の関係は、実はそれほど遠いものではないのかもしれない。
ともあれ、いろいろ考えさせられるおもしろい試みなので、今後もこういった鑑賞ツアーには参加していきたいと思う。

ちなみに、視覚障害者の美術鑑賞の方法には、言葉によるもののほかに触覚を使う方法もあって、欧米などではむしろこっちの方がさかんなようだ。彫刻作品や建築作品の実物あるいはレプリカや、絵画を浮き彫りに翻案したものを触って鑑賞してもらうのだ。イタリアにはオメロ触覚美術館という、それ専門の国立美術館さえある。