『禽のゐる五分間写生』閲覧記

「かなぶん」こと、神奈川近代文学館へ行く。
高祖保の第2詩集『禽のゐる五分間写生』(月曜発行所、1941年)を閲覧するためである。

先月、石神井書林の目録より入手できなかったことで、古本病の悪いガスが行き場を失って心身を蝕んでおり、このままではとても夏を越せそうにない。応急処置として、とにかくにこの手この目に実物を触れさせてガス抜きしようと思った次第。本当は、ハンコが押されてラベルが貼り付けられているであろう無残な姿を見るのは忍びないのだが、そう贅沢も言っておれない。

高祖保の第1詩集『希臘十字』(椎の木社、1933年)や、高祖と乾直恵が出していた月刊詩誌『苑』の創刊号(1940年6月)などとともに閲覧を申し込んだのだが、『禽のゐる五分間写生』だけなかなか出てこない。カウンターから「これだけ見つからないのよー」という声が漏れ聞こえてくる。大丈夫か…
しばらくして、「ほらー、こんなに薄いー」という声に続いて、名前が呼ばれる。分かってはいたが、手渡された詩集は本当に薄くて小さくて、羽根のように軽かった。

5篇の詩を収める『禽のゐる五分間写生』は、文庫本サイズのA6判で本文わずか16頁。それが糸とじされているだけで、背表紙などない。書架で他の書物の間に挟まっていたら、その存在は全く隠れてしまうだろう。
受け取った詩集は他の蔵書と同様透明のビニールカバーを纏っており、幸いラベル類はそのカバーの表面に貼られていた。だが奥付頁には「神奈川近代文学館」のハンコが。
表紙と本文は、ともに同じ緑色の羅紗紙に刷られていたのだが、今やすっかり色褪せて、水たまりみたいな薄い水色が頁のなかほどに残っている。これはこれで趣がある。
そして表紙。造本を手がけた近江の詩友・井上多喜三郎の発案による玩具の貼り絵が、高祖自身の言葉をかりると「なんともいへない魅力となつて一册を覆つてゐます」。

他へおくるのが惜しいくらゐです。ゆつくり、一册一册の表紙をみてから、送り先の顔を考へ、それから、ゆつくり袋をこさへて、一羽一羽とびたたせようと思つてゐます。

外村彰編 『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』 龜鳴屋、2008年、150頁

高祖保が井上にこう書き送ったのは、1941年7月16日のこと。それから70年。詩人がとびたたせた詩集は今、わが掌中に舞い降りている。

淡い夢のつばさが、きれぎれになつて吹かれながら、そっとおりてきた。

高祖保 「孟春」 第一連より (『禽のゐる五分間写生』)

われより他に誰もいない真っ暗な閲覧室で、閉館間際まで夢の時を過ごす。心身にみちていた古本病の悪いガスは、いつしか暗闇の中に溶けていった。次にこの部屋を利用する人は、うっかり吸い込まぬよう注意されたし。

かくて古本病の応急処置はそれなりの成果を収めたのだが、いつまた悪いガスに悩まされるやもしれぬ。根本治療は『禽のゐる五分間写生』を蔵書とすることだが、あの石神井書林でさえ、30年のキャリアの中で今回初めて扱ったという稀覯本である。寿命が尽き果てるまでに入手できる可能性は、限りなくゼロに近い。
たしかに、横浜まで来れば手に取って閲覧することはできる。だが、もう少しこの書物との隔たりを縮められないものか…
ということで、表紙を含む全頁のカラーコピーを申請することにした。(著作権は消滅している)
帰ってからデータ化し、iPhoneに入れる。

これでいつでも原本を偲ぶことが出来るようになったのだが、眺めれば眺めるほどまた横浜へ行きたくなる。
石神井書林店主が書かれているように「書物という紙の器はそれ自体が物語」で、殊に『禽のゐる五分間写生』は、その物語に手で触れながら読むことで、より深く味わえる詩集だからである。

※cf. 内堀弘初めて目にした小さな詩集―書物という紙の器はそれ自体が物語なのだ」(『図書新聞』 第3022号 2011年7月16日)