「図書館から図書環へ」
d-log.トークセッション 「これからの知―情報環境は人と知の関わりを変えるか」(@東京ミッドタウン)に行く。国立国会図書館・長尾真館長の対談シリーズ「図書館は視えなくなるか?―データベースからアーキテクチャへ」(全4回)の最終回。今回の対談相手は、情報社会論の濱野智史氏。29歳の新進気鋭である。
ウェブ時代の知のあり方について、知の集積たる図書館のあり方について、2時間の対談で交わされた両氏のビジョンをまとめてみる。
長尾真氏
- 過去からの膨大な知識の累積には、現代の課題に対する答えが必ずある。情報も書物も少なかったかつては自分の頭で考えるしかなかったが、今日では考えるより探す方が楽になった。考えることをしなくなった。ある意味嘆かわしいことだが、探せば答えが必ずどこかにあるのは事実。現在の図書館では、どの本のどこにその答えがあるのかをつきとめるのは容易でない。が、電子図書館ではそれができるようになる。
- 「知識」とは、学問的体系を持ち、何年経とうが誰でも利用できるもの。対する「知」は、場面場面、人の価値観によって異なる。これからの図書館は、個人の好みや観点によって、異なる知識の見せ方をすべき。知識のオーガニゼーションをダイナミックにすべき。
- 人は、知識を血肉化して知に転換することにより豊かになる。モットーは、「知識はわれらを豊かにする」。だがそれには訓練と経験が必要。
- (先日のウェブ学会シンポジウムの感想として) かつて「情報社会の生態学」(1991)という研究を試みたことがあった。「場の理論」にも似て、場は技術によって作られ、その動きよう(生態)は社会によって異なってくる。ウェブ時代に人は場の設定をどう使い、どう知を作り上げていくか、今後の研究に期待したい。
- 集合知について。まさに集合の中から出てくるもので、一人の中からは出てこないもの。その広い知識の背後にある深いメカニズム、構造の解明を期待する。ウェブの知識は、時間のスパンでも社会学的に見る必要性がある。ウィキペディアの記述は時間的変遷が分からない。辞書の構造化の必要性。
- フーコーの「知の考古学」、エノンセと知について。知や知識がゲーム的以上のものではなくなってしまう。遊ぶ分にはいいが。知と知識は個人それぞれの生き方に引き付けて考えられるべき。
- 「第3ステージの図書館」構想。自分で作ったシソーラス、オントロジーで検索できるダイナミックなしくみ。電子図書館では、一冊の本という単位ではなく、章の単位などでも取り出せる。取り出しの単位が自由になる。書物の解体、これが電子図書館の最も面白いところ。
濱野智史氏
- ウェブ時代では技術決定論(技術が社会を変える)と社会構築主義(社会が技術を変える)が両立する。今後ツイッターで政治が変わることがあるかもしれない。外来のブログというツールは日本人の好みに合わせて作り変えられてきた。はじめは技術決定的だが進化は社会決定的ということがありうる。
- 今日のウェブのダイナミズムを支えているのは、アーキテクチャ、すなわちサービス設計の仕方。例:ニコニコ動画のタグシステム。その分類は、ボルヘス「ジョン・ウィルキンズの分析言語」(『続審問』所収)に出てくる中国の百科辞典のごとく、めちゃくちゃである。だがそれは常に進化と淘汰を繰り返し、生成流転(flux)している。FolksonomyからFluxonomyへ。
- 集合知について。ポパーのいう反証可能性を伴う進化と淘汰が、知のフィールド間競争が、起きている。それは知のあり方そのものを変えた(例:ニコニコ動画)。これまでは人間が知を生んでいたが、これからはメタデータが知を生む。主役はメタデータ(例外:レヴィ=ストロース・・・一人ニコニコ動画)。脊髄反射的に考えられた知が構造化されていく。
- ウェブ上の時間について。多次元時間世界が存在する(ニコ動、ツイッター)ことにより、ウェブ上のコミュニケーションも多次元化している。
- バーチャルとリアルについて。それぞれに乖離していくというよりも、AR、例えば「世界カメラ」の拡張現実で、現実が瞬時に多次元化されることもある。そこに倫理的問題が生じる可能性がある。
- 図書館から図書環へ。図書館というひとつの建物への知の一極集中ではなく、「自律・分散・協調、ときどき直列」的な知を支える環境としての図書“環”を。