Enchiridion 4 プラトン

プラトン B.C.427-347

書物は、その父を神にまで高める不滅の息子である。※

[(上記と正反対の見方ではあるが)書物と話し言葉とを対比した以下の節も引用に値する。「プラトンの書きぶりは、」とJ.マーティノー博士は評する。「この節に見られるように、法律をのぞく書きもの全般に対し一貫して侮蔑的である。ちなみにここより前では、文字を発明したトート神が、人間を文字記録に安易に頼らせるようしむけたため、その記憶力と知識の活発な統制力を損なってしまったことが嘆かれている。プラトンは、書かれた言葉というものの利点を、読書が生活の大きな慰みとなる老年の衰えた記憶を埋め合わせるはたらきに限定している。感傷的ユーモアにほんのり染まった一節である。」]


じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合とほんとうによく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。それがものを語っている様子は、あたかも実際に何ごとかを考えているかのように思えるかもしれない。だが、もし君がそこで言われている事柄について、何か教えてもらおうと思って質問すると、いつでもただひとつの同じ合図をするだけである。それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分の力だけでは、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。
Dialogues: “Phaedrus,” quoted by Dr. J. Martineau, in “Types of Ethical Theory,” vol.i., p.III.
〔『パイドロス』275D-E、藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、136-137頁〕


ジャウエット教授による同節の訳は以下の通り。

   〔訳文省略〕


Alexander Ireland (ed.), The Book-Lover's Enchiridion, 5th ed., London, Simpkin, Marshall & Co., 1888, pp.2-3.

※出典不詳。
なお、『パイドロス』におけるプラトンの書物観は、『第二書簡』314A、『第七書簡』341C-E・344C-E、『プロタゴラス』329Aにも見られる。